カールズバッド奇譚:ハロウィーン・シーズンの邂逅と離別
米国に出張した。毎年この時期に所属機関の本部で重要な会議があって、リモート参加のこともあるけど、わたしはだいたい毎年出向いている。そんな出張でも、運命に導かれるかのようなことがあるかもしれない。今年はちょっと不思議な出会いや別れがあった。
今回はその不思議な出会いや別れについて。
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会議に先駆けること3日。わたしは別件の講演の仕事と、研究の打ち合わせで、会議よりも前倒しの日程でカリフォルニア州南部のカールズバッドに赴いた。
久しぶりに米国本部へ行くので、休眠状態になっているセキュリティカードのアクティベートなどをしなくてはならない。早めに出社するべく、朝食サービスのはじまる午前6時半にロビー横のバースペースへ向かった。エレベーターで居合わせた男性の顔に見覚えがあった。
人違いの可能性だってあったわけだけれど、迷わず呼びかけた。人違いではなかった。
その男性はコロナ前に退職した元同僚だった。わたしが入社したとき、彼はタイに居て、わたしの半年間のバンコクでの研修期間には何かと世話になった。その後、彼が米国に移っても、何度かのわたしの出張のたびに会っていたし、研究試料の加工や測定で一緒に仕事をした。家族で1ヶ月滞在した折にも、子供たちの相手をしてくれた。
突然の退職後はフランスに居るらしいと風の便りに聞いてはいたけれど、彼はソーシャルメディアもやっていないため、連絡をとることはなかった。
エレベーターを降りて目的のバースペースへ向かうと、研究開発部門の副社長と技術コンサルタントのふたりが談笑中だった。彼らも会議前に予定があって早く本部入りしていた。朝食サービスの開始を待っていたらしい。それぞれニューヨークとロンドンからやってきており、とくに打ち合わせを予定していたわけでもなく、偶然ホテルで会っただけのようだった。わたしたちと合わせて4人、テーブル席に座って朝食ブッフェを注文した。
エレベーターで会った元同僚は、今スイスに住んでいて、そのままふたたび従業員として復帰するのだという。ポジションなどは聞いていないけれど、拠点を移さずして復帰できるとは羨ましい。むしろヨーロッパ在住という地の利を活かせるメリットがあるのかもしれない。
あとは4人で世間話になり、間近に迫っていたニューヨーク市長選(ちょうどこれを書いている今、ゾーラン・マムダニ新市長の当選が報道された!)、そして、めぐりめぐって日本の政治の話になった。高市政権がそれだけ注目されているということに少々驚いた。わたしがこの組織に所属してからもうすぐ13年。米国出張中に日本の政治が話題の中心になったことは初めてだ。
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わたしの講演会は好評だった。聴講者数の記録を更新したとのことで、主催者からも感謝された。聴衆のひとりから、講演時間を延ばしてほしいとのリクエストがあった。それも過去4年間では初めてのことだったらしい。
他企業の研修講師も含めて、講演はわたしの主たる仕事ではない。あくまでボランティア的に引き受けているだけ(仕事のなかでの依頼なのでわたしは特別に講演料などをもらっていないという意味)だが、それなりに評価されているのはありがたいことだ。
聴衆のなかに、退任した前CEOの姿があった。わざわざ聴きにきてくれたらしい。9月に彼女が東京を訪れた際、ちょうどわたしが他社の研修講師として呼ばれて大阪へゆく直前だった。そのことを覚えてくれていて、完全に引退する前にわたしの話を聴いておきたかったとのことだった。これまたありがたい。
コミュニケーションの点では規模のわりに経営者らと従業員の間の垣根が高くない組織ではあるけれども、やはりCEOの肩書が取れてからはその垣根がさらに低くなったようだ。こちらも相手の顔色を過剰にうかがったりする必要もなく(元来そんなに忖度できるような性格でもないが)、気さくな話ができた。
講演会場のすぐ近くに宝石の展示があり、その立派な展示内容についてあれこれと語りあった。ルーブル美術館で起きた盗難の犯人グループに目をつけられてはいけないので、警備をもっと厳重にしないとなどと冗談混じりに(冗談になってない?)。いや、この展示はほんとうにそれだけ見事な宝石が目白押しなのだ。
この時に話題にしていたパパラチアサファイアの原石についてツイートしたら、わたしにしては珍しくけっこうバズった。
蓮の花が名前の由来になった宝石の、こんなに立派な原石を見たのは初めてかもしれない。 pic.twitter.com/tsFhHnV29x
— ユウスケカツラダ(石) (@gemologist_yk) October 29, 2025
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出張の主目的の会議は都合3日間ある。その性質上、内容について書くわけにはいかないのだけど、その会議にはわたしに割り当てられたプレゼンテーションの時間がある。
わたしの話は、ある有名な鉱山から副産物として出た石(もったいぶって申し訳ないけど会議の内容が非公開なので詳しくは書けない)。その微量元素から推定される成因と宝石市場での影響を考察した内容だった。
すると翌日、学術誌の編集長から、わたしのプレゼンテーションを聴いて思い出したという石の標本を受け取った。彼がその昔、ある鉱山主から個人的に譲り受けたというものだ。
ある有名なエメラルド鉱山から採れた、見た目の異なる結晶。標本としてはわりと綺麗なものだけど、その信憑性には疑問符がつくということで、特に調べるまでもなくそのままになっていたらしい。その事実を確かめるべく、その標本を使ってほしいということだった。
たしかに、わたしが入社して数年目あたりに、編集長を含むチームでそのエメラルド鉱山を訪れた記事があった。その時の?どうやらそのようだ。珍しい標本として譲られたものの、自ら採取したものではないせいか、研究試料としてではなく、個人コレクションとして眠らせていたらしい。
わたしの話が、そのことを思い出させ、その標本は陽の目を見ることになった。分析の結果次第では、ひょっとして学術的に意味のあるアウトプットに繋がるかもしれない。
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会議2日目の夜にはちょっとした晩餐会があった。かつてはこうした晩餐会は定番だったのだけど、パンデミックや財政状況が理由でしばらく開催されなくなっていた。
今回の晩餐会の再開には理由があった。長年研究部門のアドバイザーを務めていたカリフォルニア工科大学のジョージ・ロスマン教授と、理事のひとりルイジアナ州立大学のバーバラ・デュトロウ教授が揃って退任するタイミングだったのだ。
どちらの先生方も鉱物名になっているほどの鉱物学の権威で、短い間ではあったけれど多くのことを学ばせてもらった。
とくにデュトロウ先生はトルマリン研究の大家である。わたしが筆頭著者として書いた論文の共著者に加わってもらい、その際には執筆時の最新情報を視野に入れた修正案を鮮やかに提案してくださった。その時は学生時代にもどったかのような感覚で、自分の未熟さを思い知らされた。
遡ること数年。彼女が理事として東京を最初に訪れた際、わたしが呼び出された。なにかと思えば、その前年にわたしが書いたトルマリンの論文について話したいということだった。いつの間にかわたしは社内でトルマリン・ガイなどと呼ばれるようになったのだけど、それはこれがきっかけなのではないかと思っている。
晩餐会の前日、太平洋を臨む社屋のテラスでささやかな軽食パーティがあった。その際にも彼女とトルマリンの話をした。さながら宝石学のトルマリン分科会である。図々しくも日没直後の空を背景にして一緒にセルフィー撮影までお願いしてしまった。トルマリン・ガイとしてのわずかなセルフィーである。
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次の調査旅行のメンバーが集まるので、その作戦会議もあった。他の調査でも同行していたベテランのビデオグラファーも同行予定だったのだけど、なんと彼は今月いっぱいで引退するので不参加だという。そういえば今回はまだ彼には会っていない。有休消化だろうか。
調査を写真や映像で記録する代役を急遽探すことになったが、適任者は見つからないかもしれない。そうなると、わたしを含むメンバー各々が自力で撮影せねばならない。わたしはスケッチならいくらでも描くよと冗談を言っていたが、趣向を変えて“絵で見る宝石採掘”なんてのも悪くないかもしれないと思いはじめた。
会議の集合写真のカメラマンが、その引退するビデオグラファーだった。会議の出席者にはわたしのように調査旅行に同行した者もいれば、取材動画の撮影をしてもらった者もいる。集合写真の撮影後は、別れを惜しむ握手会と化していた。
彼と一緒にロシアのエカテリンブルクを歩いた時のことを思い出す。体制が変わって30年近く経っていてもソ連の雰囲気が残っていて、カリフォルニアの感覚で見ればかなり素朴に見える。ロシア人は一見無愛想だけど、ひとたび親しくなればとても魅力的な人たちだ。彼は余生はこんなところで過ごしたいなんて話していた。今や米国人のロシア渡航は容易ではなくなったけれど、彼の希望はまだそのままだろうか。
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今年は11月初旬にまた東京で研修講師の予定があったので、米国に長居はできなかった。会議終了後の翌朝、わたしはホテルから空港に向かい、帰国するスケジュールになっていた。
荷造りを終えて、迎えの車が来る前に遅めの朝食をとろうとバースペースへ行くと、初日にエレベーターで会った彼がひとりで食事中だった。むろん同席して出発ぎりぎりまで話し込むことになった。
彼はコロナ禍に通信教育で現代美術の修士号を取得したらしい。そうだった、彼もわたしと同じように趣味で絵を描いていたんだった。そして宝石内部の写真で大きな賞も取っていた。宝石学はサイエンスでもありアートでもある。彼はそう言って、わたしも大いに賛同した。
今はスイスに居る彼は、そのうちパリに移る予定だと言う。そういえば、来年の夏にはパリで国際旗章学会議があるので、わたしはパリを訪れるかもしれない。そう告げると、パリで案内したいところがあると言う。具体的にそれはどこなのかと訊くような野暮なことはしない。それならサプライズのお土産を用意するのでよろしくと返しておいた。実はまだ何も考えていないのだけど。
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サンディエゴ国際空港まで約45分。予約していたリムジンの運転手はおしゃべりな男性だった。その運転手はイラン移民で米国に住んで47年になるという。それだけの長きになれば、話していても移民だとは思えない。彼の言葉は生粋のカリフォルニア英語に聞こえた。
米国に留学中にイラン革命があった。それで帰国できず、一時的に不法滞在になったこともあったらしい。卒業後、米国でいくつかのビジネスを立ち上げ、メキシコ人女性と結婚して二児をもうけた。祖国の厳しい情勢を想い、仕送りもしている。米国との関係悪化やトランプ政権下で居心地の良くないこともあると言う。いやしかし、かつての日系人の扱いに比べればずっとマシだと、歴史への造詣の深さと教養をもうかがわせる人物だった。
昨今の生活価格の高騰はまったくひどい。彼の次男は年収10万ドルだが、若者は家族も持てず家も買えないと嘆く。10万ドルは今のレートだと1,600万円だ。日本だとかなり高収入。しかし、米国では足りないらしい。それはわずか1週間の今回の滞在でもわかるような気がした。ホテルの朝食ブッフェでも31.44ドル。5,000円を超える。夕食になるとチップ込みで約8,000円。もちろん外食だからというのもあるけれど、この調子だと万事が日本の数倍かかると予想できる。
はて、この運転手は余生の嗜み程度にこの仕事をしているのだろうか。一連の話はリアルに聞こえるが実話なんだろうか。
そんな考えが頭をよぎったところで、彼もまた政治の話をした。トランプ大統領がハーバードの留学生を切り捨てたのは、民主党支持者を分断させるためだと。米国の繁栄は自分たち移民によるものだ。裕福な米国人はその経済力でそんな成功した移民に近づいて利用しただけ。そうした米国人、つまり民主党支持者を弱体化させるために移民を排除するのは愚かなことだ……これは移民側からの視点だと思った。一瞬、この人物はホラ話をしているのではないかと訝ったけれど、やはり彼は苦労したイラン移民なのだろう。
モタシャッケラン(متشکرم)。
空港に着き、タクシーを降りる際に、わたしの知るわずかなペルシャ語を使ってみた。学生時代にイランからの留学生に教わった言葉だ。「ありがとう」という意味。
するとどうだろう、彼は涙を流して喜んでくれた。ああ、申し訳ない。実はあなたが本当にイラン移民なのかをちょっと疑っていたので……なんてことは口にできなかった。日本語でなんというのか教えてほしいと請われた。彼は「ありがとう」を繰り返し、わたしを見送ってくれた。
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空港には離陸の2時間前に着いたというのに、保安検査の行列に1時間以上も並ばされた。旅行者数に対して稼働している窓口が少なすぎるうえに、まるで思いつきのようにころころ指示を変える担当者が状況を悪化させていた。米国はごく少数の優秀な人材が仕組みを作り、大量の無能がそれを回しているなんて言われるけれど、もしかしてこれがそういうことか。
行列で退屈しながら、わたしはインスタグラムのストーリーズに今回の出張で撮影した写真を載せたりして過ごしていた。太平洋に沈む夕陽、早朝の朝靄、職場やホテルのカボチャ装飾コンテスト、「カリフォルニアから愛を込めて」と書かれたコースター……
すると、そのうちのひとつに「カールズバッドに来ているの?」とコメントがついた。コメントの主は2年前に整理解雇で職場を去った元同僚だった。いつの間にかフォローされていたのを今になって知った。
「来ているけど、もう帰るところ。今は出国前の空港」
そう返信するとすかさず、
「次に来る時には必ず前もって連絡して」
と返ってきた。そして間髪を容れず
「母がご馳走つくるって」
モロッコ出身の彼女は母親と妹たちとともにサンディエゴに暮らしていた。2度ほど家に招かれて、それはそれは豪華な手料理でもてなしてくれたことがある。彼女たちは、わたしにはモロッコのマグリブ方言ではなくフスハー(正則アラビア語)を話してくれるので、とてもいいアラビア語の勉強になった。

昨年の渡航時、わたしは彼女に連絡を取ろうと思った。しかし、彼女と親しかった同僚たちも退職後のことはよく知らなかったので諦めたのだった。
彼女が解雇される直前、ドバイに新設する事務所に転籍を希望しようかと考えていると相談を受けた。妹の一人がエミレーツ航空に勤めていることもあって湾岸地域に人脈がある。それは良い選択のように思えた。しかしながら、転籍の希望を募る通知が出るが早いか、数百人規模の整理解雇が発表された。長年の貢献にもかかわらず、彼女は解雇の対象だった。
その後のことはわからなかった。ドバイの話を聞いていたこともあり、サンディエゴを引き払ったのかもとは思っていた。今回の空港での、メッセージを介したやりとりで知ったことは、まだサンディエゴを拠点にオンラインで湾岸地域との仕事をしているらしいことだ。わたしも中東で働くことには関心がある。次の米国出張時には彼女にあらかじめ連絡をとっておこう。
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かくも濃密な1週間だった。さまざまな生き様に触れた1週間だった。
先月、ハロウィーンにからめて触れた21日の音楽で、わたしはハロウィーン当日には米国にいる旨を書いていた。その当日は仮装をした職員や生徒たちの姿はあれど、田舎町ゆえか派手なパーティなどは見かけなかった。子供のいる同僚たちはそそくさと帰っていった。トリック・オア・トリートの準備があるのだという。
ハロウィーンは元々は先祖の魂を迎えるケルトの祭だ。現代はその意味合いは薄れているかもしれないが、死者のモチーフがメメント・モリに通じるところがある。メメント・モリは死を意識することでより良く生きる思想だ。
独立した強い意志で自立して生きる“超人”たれ。ハロウィーンの骸骨がそう語りかけてくるかもしれない。
ニーチェの言う“超人”こそ、死の恐れを克服して自由に生きる者だと言えるか。
多かれ少なかれ、“超人”的な人びととの邂逅があって刺激を受けた。人によっては、わたしがそう見えていたかもしれない。時期的にハロウィーンと重なったことで、なんだか余計に敏感になったところはある。
カールズバッドの海辺は一日を通していろんな表情を見せてくれる。とりわけ日の出と日の入りの時間帯は美しい。ギルガメッシュ叙事詩でも象徴的だったように、繰り返される太陽の運行すなわち光と闇の循環は人間の有限性を浮き彫りにする。
今回の出張では、ホテルと職場を往復する道すがら、カールズバッドの海が朝夕に見せる様々な表情に心を奪われた。それはまるで、出会いと別れが織りなす人生の光と影を象徴しているかのようだった。


見出し画像はこれらを合成して作成した。日の出と日の入りが同居した画面。さまざまな邂逅と離別を凝縮した、この1週間を象徴するにふさわしい。
