ディア・ソムニア【第八話】
週明け、朝の九番線ホーム。速度を落としながら向かって来る車両の窓越しに、びっしり押し詰められた黒服たちが待ち構える朝の光景には、毎日気が滅入る。
休日は比較的ゆっくり過ごすことができたと思いつつも、今日が月曜ということもあってか、航平は出勤前から既に疲労感を覚えていた。その感覚は繁忙期に覚えたそれとは似ているようで、どこか違う。終始ぐったりした状態で、辿り着いたオフィスのドアを抜ける。
「はいコレ」
「え? ああ、ありがとう」
「あれ、もしかして航くん、寝不足?」
デスクに着いてからまもなく、頻繁に欠伸をしながらパソコンへと向かう航平に、隣に座る瑠璃が察したのか、カップに注いだコーヒーをデスクに置き気遣いの言葉を掛けた。
今週は特別、急を要するタスクもない。言うならば通常営業。少しばかりの堕落を匂わせ「ちょっと夜更かしをね」と瑠璃に告げると、航平は出されたコーヒーを流し込む。
こんな日があってもいいだろう。香り立つ液体のその適温に、彼女の優しさときめ細やかさが溶け込み芯まで染み渡ってくるようで、苦味を感じなかった。などと思いながら文章を打ち込んでいると、エンターキーを押すと同時に隣席のローラーがぐいっと音を増し近づいた。
「ねえ航くん。お昼、良かったら航くんの分も作ってこようか」
自分だけに聞こえる声音で、突如として投げかけられた。抑えた声量の分だけ距離は近く、瑠璃のほんのりとした息遣いが耳朶を震わせる。一気にまどろみが晴れた。
航平は普段はいつも近くの定食屋か、もしくはコンビニで昼食を済ませている。同僚の男子と一緒だったり、一人だったり。基本適当だった。
――どこまで、どこまで慈悲深いのだろう。
思いながら、瑠璃を見つめる。
いや、本当ならただそう思う、だけのはず。だが思いながらも、この時の航平には既に感じ取っていた。少しずつ、関係が、その形容が変容していることに。単なる同僚として、単なる同郷として以上に、決して言葉にしてはいけない只ならぬ熱がこの関係性の中に育まれつつあることを。
夢現手術については秘め事にしてはいるものの、瑠璃に対しては妻が亡くなったことは告げている。
だからなのか。職場内で保っていた今までの距離感を、ある種その聖域を超えての瑠璃からの思いがけない発言に、航平は驚くと共に彼女の秘めた強い思慕を読み取った気がした。
「ありがとう瑠璃」
「や、けど、流石にそれは」
職場内でそういうのはと、変に勘付かれるのは良くないと、航平は含みを持たせ表情と共に返した。対する瑠璃は数秒の間を空けた上で、我を忘れてついと言わんばかりに目をパッと開かせると、「あっ。そう、だよね……うん、ゴメン」と恥ずかしそうにしながら答えた。
仄かから、明瞭に染まる赤。その熟れた果実をひた隠すように自席へと身体を移動させる彼女を見つめながら、その実航平は自身の本心を確かめていた。
まるでやりとりそのものが無かったかのように、巻き返すように、その後瑠璃の細い指先がカタカタとキーボードを打ち鳴らす。航平も何食わぬ顔で業務を再開させた。させながら、心中でぐっと歯噛みする自分がいた
「――では、行ってきます」
三日後の木曜。航平は昼休みを目前に一人席を立つと、課長に一声かけビジネスバッグを手に会社を後にする。この日は午後から、得意先への来訪が入っていた。瑠璃にも軽く一瞥すると、ニコリ、小さな首肯が返ってきた。
午後三時。会社を出てからおよそ三時間後、思った以上に早く得意先との折衝が終了し、航平は訪問先のオフィスを後にした。場所は郊外。時間にゆとりが生まれたものの、何だろう、戻って仕事をする気にもなれない。航平はルートを逸れ歩き進めると、近くの大公園のベンチへと腰を下ろした。
じつは、ずっと。言いようの無い倦怠感が未だ引き続いており、じわじわと体内に蓄積していた。空に広がる青が今は煩わしく思え、即座に視線を落とす。さざめく園内の並木をぼうっと眺めながら、航平は希美花との夢中を回想した。
「航ちゃん」
「うん」
「航ちゃん、愛してる」
「ああ」
航平は自覚していた。確か、希美花の誕生日を終えてからだろうか。あれから航平は毎晩、必ず夢を見ていた。そして夢中では、妻との時間を欠かすことが無い。心境に変化があったのだろう。希美花は会う度に、積極的に航平の体を求めるようになった。
嬉しい。愛情の表現。珍しく希美花の直情的な部分を見られた気がして、それが航平の興奮剤にもなった。そうして互いに無我夢中で求め合う。ここ数日は毎夜のことだった。
けれど少なからず、徐々に戸惑いも生まれつつあった。最近の疲労感はおそらく、夢中からの反動なのかもしれない。普段は航平が情熱的に立ち回り、希美花がしょうがないなと言いながら諭すも、結果受け入れるといった流れがまるで逆転したかのようで、だからこそ大事にしたいという思いから、航平は快く受け入れていた。
希美花の愛をより実感できる。
だから、いつまでも何時でも、拒みたくはない。
ベンチに座り夢と現実のジレンマを感じながら遠望していると、スポーティーなジャージを身に纏った老夫婦の姿がふと目に留まった。
ひっひふう、ひっひふう。息の揃った呼吸音が近づいては、やがて離れていく。二人は隣り合いながら、仲睦まじく敷地内をウォーキングしていた。
一見するに、七十を超えているであろう老夫婦の男女。航平はただじっと見入っていた。そして、想起していた。
「さて、と」
パシンと両膝を打ち、立ち上がる。斜陽が煌々と差し始めそろそろ行くかとバッグに手をかけると直後、ポケットの中が振動したために、航平は再び腰を沈めた。
「もしもし」
「ああ、廣川か」
「おお航平、久しぶりだな。ゴメン急に電話して。今、大丈夫か?」
電話の相手は、高校時代の同級で友人の廣川だった。廣川とは当時同じサッカー部に所属し、共に高め合った間側。大学進学で上京した航平とは異なり、廣川は地元に留まり、現在は某スポーツ用品メーカーに営業職として勤務している。
「えっ? 廣川、こっち来てるのか」
「そう、ちょうど主張でさ。で、よかったらメシでもどうかと思って。急なんだけど」
用件は夕食の誘いだった。前に会ってから何年ぶりだろう。長らく会っていない友人からの誘いに、航平は高揚し「ああ、いいな」と返そうとする。だが言いかけて、瞬間瑠璃のことが頭に浮かんだ。
「多分大丈夫なんだけど。悪い、一旦待ってもらえるか」
軽妙に話す廣川に一言断り通話を終えると、航平はすぐさま瑠璃に向けメッセージを打ち込んだ。
『お疲れ。いきなりだけど瑠璃、廣川のこと覚えてる?』
『じつは仕事でちょうどこっちに来てるみたいでさ、それで今晩メシ誘われて。良かったら瑠璃も一緒にどう?』
航平は送信ボタンを押し、改めてバッグを肩にかけ歩を進めた。
当時同じサッカー部で共にした廣川のことは、マネージャーであった瑠璃も当然知っているはず。何なら地元で開催された同窓会等で、社会人になって以降は自分よりも面識があるかもしれない。そんな思いでメールを送ると、五分と経たずして返信が返って来た。
『お疲れ様。メールありがと』
『でも、航くんゴメン。じつは今日、ちょっと体調悪くて。だから早退しようと思う』
『帰りだけど、今日は日が暮れる前に退社するし、最寄りから自宅までタクシーで帰るつもり。だから大丈夫だよ』
『ごめんね、誘ってくれたのに。いつもありがとね』
文面を見た航平は心配になり、即座に会社の外線にタップしようと指をかざすも、余計に気を遣わせるかも、もしくはちょうど退勤するところかもしれないと二の足を踏んだ。
この時間にタクシーで直帰であれば、まあ安心だろう。しつこくするのも性分じゃないと納得し、
『そうなんだ。心配だけど……わかった。ゆっくり休んで』
『何かあればすぐ、連絡してくれ』
と返信するに留め、航平はその後改めて廣川の番号へ発信ボタンを押した。
「カンパーイ!」
午後七時。この日は蓄積した疲労に甘えた形で終業時刻間際に合わせ会社へ戻った航平は、終業のチャイムと共にオフィスを後にした。そして真っ先に目的地である繁華街の一角、メニューも豊富で割と居心地の良い見知った呑み屋で廣川と合流し、ジョッキグラスを合わせる。久方ぶりにあった廣川は当時から変わらずで、不思議と時間の経過を感じさせなかった。そうして主にお互いの仕事に関する近況について、煌々と語り合う。ある種社会人のテンプレのような話題ではあったが、あの当時サッカーにあけくれていた若者が今やスーツ姿で上司がああだとか納期がああだとか言って話しているのを俯瞰してみると、どうにも可笑しかった。
「あ、そうそう。本当は今日さ、瑠璃もここに来れたら良かったんだけど」「るり? るりってまさか、一ノ瀬のことか?」
「ああ。じつは今年の春に、瑠璃が同じ会社に来て。しかも同じ部署に入社してきてさ。それでじつは今一緒に仕事してるんだ。なっ、すごい偶然だろ」
「うっそ、マジか。上京、してたんだ」
箸をピタリと止め驚きを見せる廣川。だがすかざず続けて「……一ノ瀬、そこまでして」とボソッとか細い声で零したのを、航平は聞き逃さなかった。
「ちなみに航平。お前ら二人って、付き合ってたりとかは」
「え? 瑠璃と?」
「ああ。だって、希美花さん……だっけか。電話してくれただろ。前に、その――」
夢現手術を受けてから少し経ってのこと、航平はとりわけ付き合いの深い親しい友人には、妻が病で亡くなったと報告していた。話したのはほんの数人だけで、廣川もその一人。表情と声音から、今廣川が希美花の件を示唆しているのだと察した。
「別にそんなんじゃ。付き合ってたのだって高校の時の話だし。ていうよりさっき、そこまでしてって――それ、どういう」
先程から引っかかっていた廣川のセリフを復唱し問いかけると、一瞬余計なこと言ってしまったという表情で廣川が視線を下げ、咳き込んだ。
「ああ、それはその」
「なんだよ」
「ゴメン航平。オレ、じつは……うっかり話ちゃったんだ。以前地元で同窓会がてら、学生仲間たちと飲んでた時に、ちょうど瑠璃もそこにいて。それで瑠璃にさ、航平とはまだ連絡取ってるのかって聞かれたんだけど、だいぶ酔ってたのもあって、つい……オレ」
手を合わせしぶしぶ語る廣川に、航平は当惑した。
「それで、何て話したんだ?」
「航平の奥さんが病気で亡くなったって、それだけ。でもその時の瑠璃、何だろう、凄い航平に興味津々でさ。あいつもしかしたら、航平に会いたいのかなって思って」
そうして廣川は、加えて瑠璃に航平の勤務先まで話したのだと語った。
偶然だと思っていた再会。だが違っていた。これからほどよく、そう思っていた酔いは一気に冷め、航平は言葉を失う。
どういうことだ。酒が思考の邪魔をした。すぐさまできる限りの断片的な記憶を辿ろうと試みる。別に廣川に対し、怒りは芽生えなかった。懸念していたのは、あくまで自分が夢現手術を受けているという事実であって、それは廣川にも誰にも話してはいない。とはいえ。
謝罪の言葉を繰り返す廣川に、航平はもういいからと宥める。
「なあ廣川。もし知ってたら聞きたいんだけど。瑠璃の元彼について、何か知らないか」
「え? 瑠璃の元彼? えーっと、まあ軽くだけなら。でも確か、別れたのはもう二年前って聞いたような気が」
「二年前?」
「オレも詳しくは……。けど飲み会で軽く話した時に、二年前に別れったって。――あ、そうそう。で、その元彼がオレの会社の同僚の偶々知り合いでさ。去年結婚して、今はたいそう幸せに過ごしてるって聞いたよ。こっちと違って、地元はやっぱ狭い世界だよな」
「あぁ羨ましい」と垂れ流す廣川を他所に、航平の視線は泳ぎ、頬がひきつる。
「だけど瑠璃、元彼にずっと付きまとわれてるって」
「は? そんなバカな、ありえないだろ」
別れたのは二年も前。それに、相手は結婚もしているという。ストーカー被害の件を細かく聴取しようと考えていた航平だったが、既に思考は猜疑心に占有されていた。
考えて見れば、航平はずっとその実体を知らない。写真を見せてもらったことも無ければ、名前も知らない。特別教えてほしいと求めたわけではないが、何も情報を得てはいなかった。付き添いに関しても、平日の夜間のみであって、では休日はどうしているのか。大丈夫なのか。細かく見て見ると大いに隙が存在していることに、今さら気づいた。
その後廣川と別れ、ホームへと歩を進める。航平はこの日やりとりをした瑠璃のメール文を眺め続けた。もしかすると瑠璃は、廣川の名を聞いて察してしまったのだろうか。
――彼女は、嘘をついている。
電話でもメールでも、いつもなら気兼ねなくできるはずの事ができない。自宅までの帰路を歩きながら、航平はずっと熟考していた。廣川から話を聞いた時は正直疑心が強まっていたが、今はどうだろう。瑠璃と再会してからの日々を振り返る。言葉、表情、所作。その全ては、決して航平を欺くものではない。それだけは間違いないと、確信できた。
航平は足を止めた。瑠璃の想い。それは紛れもなく自分に向けられたベクトルであって、廣川には強がって誤魔化したが、彼女のある種明喩ともいえるこれまでの示唆に、できるなら呼応したい。
という思いが溢れ、彼女の自宅へと踵を返そうとした瞬間、視界の先でガサゴソと奇妙な音がした。その音は静まり返った夜の住宅街には、あまりに不自然で、航平は一歩二歩と近づいてみる。そこは自宅近くのごみステーションだった。すると気配に気づいたのか、集積した袋を次々に蹴り上げ、癇癪を起こす幼子のように鳴き声を発したその生き物が顔を出す。黒猫だった。
じいっと、見つめ合う。航平と数秒間目を合わせた後、黒猫は生ごみの破片を額に飾りながら高速で走り去って行った。爪と歯によって、破れ裂かれ散らかった袋の山。街灯に照らされたその薄汚れた視界の奥で、航平は目を奪われた。
「あれ、って」
汚れ引き裂かれたそれは、ただの布きれと化していた。もはや見る影もない。そして、猫の手によるものでもなかった。
数分間、航平はその場に留まり続けた。熟考に次ぐ熟考で、脳がもう限界。酒気も抜けずぐらんぐらんし、軽く吐き気を覚えた。
結局その夜。航平は瑠璃の自宅はおろか、連絡も取らずに自宅へと戻った。
