ディア・ソムニア【第九話】
「一ノ瀬さん」
「って、そうだ……いないんだった」
課長が腕を挙げ呼びかけるも、方々で電話対応に奮闘する社員たちの喧騒に紛れ、空撃ちに終わる。ただ航平だけが課長の呼び声に反応し、そのまま無人となっている隣席へと視線を終着させた。
週末の金曜は早朝から慌ただしい。そしてこの日、瑠璃は休みだった。
会社には今朝がた連絡があり、本人曰くいまだ体調がすぐれないらしい。風邪を引き、昨日から発熱が続いているとのことだった。
いつも隣にいるはずの見慣れた姿が、今日はスッポリと消失している。航平は瑠璃から個別で連絡は受けておらず、出社して初めて知った。
心なしか社内の空気がいつもと違う。朝礼を終え、航平はデスクに着くとすぐ「おはよう。体調大丈夫か?」と意を決しメールを送ってみた。
体調不良が続いてるのなら、連絡してくれればいいのに。やはり気を遣ったのだろうか。それとも。
などと思いながら、三分、五分、十分経てど、瑠璃からの返信は無い。無いけれど、既読マークは付いていた。おそらく会社に欠勤の一報を入れ、少しして航平のメッセージを見たものの、すぐにまた眠ってしまったのだろう。そう思う事で意識を切り替える。ひとまず既読が付いたことに安堵し航平はスマホを閉じると、パソコンへと姿勢を正した。
画面とキーボードを往復しながら、都度逸れる視線。集中しているようで、どこか上の空。ルーティンである退勤後の付き添いは、今日はもちろん必要ない。というより、この先も。なんてことを思いながら、航平は瑠璃のことがただ心配に感じていた。
合間合間にスマホを一瞥するも、いまだ反応はない。寝てしまったのか。はたまた返す余裕がないのか。あれこれと想像を巡らすも、しつこく連絡を入れるのはかえって迷惑にもなる。この日一日、航平は終始散漫とした状態のままで、瑠璃からようやくメッセージが届いたのは夕方五時頃のことだった。
『ありがと。風邪ひいたみたいで、体調がすぐれなくて。でも大丈夫』
『本当に、ごめんね』
瑠璃からの返信に、航平はホッとした。無事で良かったと安心する。だが同時に「ごめんね」という四文字に、妙な辛辣さを覚えた。本来なら瑠璃の人柄が出ていると思い、フッと笑みを零しているだろう。返信を見て航平はすぐさま「良かった。今晩何か、差し入れでもしようか?」と送り返した。
おそらく瑠璃は一人で、まだこっちに知り合いもいないはず。すると送信して一分後、瑠璃から「ありがと。でも大丈夫」と返って来た。さらに続けざまに「本当に……ごめんね」と連投のメッセージが届いた。
別にそこまで謝る必要などない。であれば、やはり。
これ以上のやりとりは健全ではないと判断し、
『わかった。じゃあしっかり休んで』
『何か困ったことあったら、いつでも連絡してくれていいから』
最後にそうメッセージを打ち、航平はこの日の仕事を終え、一人退社した。
瑠璃が仕事に復帰してきたのは、翌週のことだった。
「ご迷惑おかけしてすみませんでした」と低頭するも、病み上がりなのか目元が少し腫れているように見え、化粧をいつもより濃くしている。
そんなことよりもだった。航平には回復よりも、やはり別の思考が占有していた。
「おはよう」
「あ……うん」
「もう大丈夫か?」
「っ、うん。大丈夫」
「そう。じゃあ今日からまたよろしくな。あ、あと。今日は残業ないと思うから、時間通り出られると思う」
航平が告げた直後、瑠璃の表情がピタリと静止した。
「えっ」
瞳孔を開き、突発して放たれたその頓狂な反応に。不自然な彼女の挙動を前に、航平も「えっ」と瑠璃の言葉をなぞる。
瑠璃はしばし沈黙した後、何かを言いかけたところで課長に呼ばれ、「は、はい」と行ってしまった。
先日廣川から聞いた話から、おそらく瑠璃は嘘をついている。けれど航平は追及しなかった。これまで通り、敢えてその嘘に付き合うことに決めた。
思いながらもやはり、瑠璃の挙動が大層ぎこちない。航平にだけだった。業務中資料を渡し渡されても、いつものアイコンタクトが無い。明らかに警戒されているのがわかった。
「瑠璃!」
限界だった。昼休みに入り、早々に席を立つ瑠璃を追いかけ、航平は焦燥しながらも呼びかける。
「瑠璃」
「航……くん」
「どうしたんだよ。いつもと雰囲気、違うじゃんか」
「――だって」
「なんかあったのか」
「航くん、あまりに普通だから。自然体すぎて……それに」
「悪い。何を言ってるのか。ていうか今日は帰り、送らなくていいのか?」
「えっ?」
また、瑠璃が朝と同じ反応を見せた。
「送るって……。航くんだって、もう必要ないって知ってるでしょ」
「だって、全部嘘なんだから」
「航くん、いじわるだね」
やはり知らない振りは聞かなかった。もう折れるしかない。
「だって、航くんなんだよ。あたしが嘘ついてることに気付いて、問い詰めたの」
だが瑠璃の返答を前に。
航平は言葉を失い、首をかしげた。
「ウソ? 問い詰めた?」
何のことか、全くもって分からなかった。
くだんの件に関し、勘付いたのは確かだった。けどそれが悪い事かと言われれば、当事者である航平自身、その自覚は無い。むしろ。
「待ってくれ瑠璃。俺、電話なんてしてないぞ。そんな覚え……」
その時ふと、脳裏にあの日の夜のゴミ捨て場の映像が流れた。さらに割れたグラス。ひび割れた姿見。一昨日、昨日と、部屋の部分部分で起き始めていた変化。
「ごめん瑠璃。多分もしかしたら、酔っていたのかも」
言いながら航平はスマホを付け、発信履歴を確認するも、やはり記録には無い。話が噛み合わず、しぶしぶ瑠璃の履歴を見せてもらうと、「0:55 航くん」で二日前に自分の番号から着信が入っていた。
自分のスマホには、表示が無い。履歴が消されているのか。混乱し整理がつかなかった。
「わたしね。近々、転職しようと思って」
立て続けに、突然だった。それでも会話を成り立たせるべく、想いとは裏腹に「やめるのか?」と咄嗟に言葉を返す。
「うん。だからあの部屋も、引っ越そうと思って」
「っ……どうして」
「わかるでしょ。航くんにあんな嘘ついて、だまして。ずっと、気を引こうとして」
「漸く自覚したんだ、わたし。最低だなって。大げさかもしれないけど、やっぱりここにはもう居られない」
「それは、辛いからか?」
航平のその一言に、瑠璃の虹彩が一瞬ゆらめいた。
「ごめんね航くん。でも、もう決めたことだから」
振り切るように早足で、瑠璃はフロアを出て行った。すぐにでも追いかけたい衝動に駆られるも、航平はただ立ち尽くすだけだった。
比較的人の少ない階段の脇に、ぐったりと腰を下ろす。
適当に目に留まったパンとドリンクをコンビニで購入し、航平は一人近くの公園へと来ていた。
ぼーっと佇みながら、何度も瑠璃の言葉を反芻する。会社を辞めるという事と、そして――。
確かに昨日の朝、キッチンに空いた酒の缶が何本も置かれていた。いつの間に呑んだんだと思いつつ、やはり記憶には無い。けれど二日酔いは無く、珍しいなと思っていた。けれど先程の瑠璃とのやりとりを経て、少しずつ、だけれど確実に、航平の中で感じ始めていることがあった。
――悪いのは自分だ。だけど。
遠巻きに見えるグラウンドで、幼子を連れた若い夫婦が楽しそうにピクニックをしている。その脇では、スポーティーなジャージを身に纏った老夫婦が笑顔でランニングをしている。先日得意先の帰りで観た光景と似て、微笑ましかった。そこには優しい熱があって、体温が合って。航平は自らの頭に手を当て、心中で言葉を唱えた。
失いたくはない。正直でありたい。
ただ真っ直ぐに、そう思った。
「航ちゃん」
夢。その日の夜、希美花はいつもと変わらず、むしろいつも以上の笑顔で航平を優しく迎え入れてくれた。
けれど、航平は気づいていた。今思えば夢現手術を受けた始めの頃、希美花が手料理を振舞って現れた時――あの時希美花は、
「おかえり、航ちゃん」
「もう。夜ごはん摂らないなんて。ちゃんと食べないとダメじゃない」
と言っていた。だが航平は何も話してはいない。なのにどうして、食事を摂っていないとわかったのだろうか。
加えて、以前同僚から放たれた言葉。
「や。でもでも、オレにはやっぱ無理。一見ロマンチックにも見えるけど、言うなら自分の脳みそに、他人が棲みついてんだぜ。頭ん中四六時中見透かされてるようで怖いわ。うん、マジ怖い。拷問だよ」
あの時は相手にしていなかったが、同僚の言葉は真実なのかもしれない。
だからもう、誤魔化しても意味がないと思った。
意を決し、希美花を見つめる。すると瞬時に以心伝心したかのように、妻の表情はこれまで見たことも無い表情をしていた。
「航ちゃん」
押し倒され、航平の身に希美花の身体が覆いかぶさる。のしかかる重力。求めるように、希美花はキスを繰り返した。それを拒むことなく、受け止める。
嬉しくて、幸せで。だがその間に、航平は瑠璃を想起した。
共に言葉を交わし、食事を共にし、常に隣り合い。
感じていた体温。それが今は、何も感じない。
妻を愛してる。大好きだ。だが求めても求めても、体温が見当たらなかった。
「航ちゃん」
「希美花」
互いの名を繰り返し呼び合い、行為に及ぶ。
やがて妻の目頭に浮かび始める雫の束を、航平は見て見ぬふりをし、そして求め合った。
言葉はきっと、いらない。それでも、ちゃんと言葉にしないといけないと思った。
翌朝。夢中での妻とのひと時を経て。
この日初めて、目覚めた航平の下半身は濡れてはいなかった。
◆◆◆
「もしもし」
「ああ、航平さん」
「すいません安雲先生。朝から急に」
翌朝。航平は主治医である安雲へと一報を入れた。
「それで、どうしましたか? 次の検診は来月の筈ですが」
「いや、あの」
「その。もう一度、手術を受けたいな、と」
「手術、というのは?」
「はい」
「夢現の、摘出手術をお願いしたいと思いまして」
