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ディア・ソムニア【第六話】

 前回訪ねた時と同様、整理整頓の行き届いた洋室。足を踏み入れると、以前にも増し、女性の部屋だと強く印象付けるムスクの香りが全身を包み込んだ。ベッドに洋服棚、ルームライトにローテーブルと、白とベージュを基調としたインテリアがバランスよく配置され、航平は身の置き場に迷う。
 一方の瑠璃はポールハンガーに上着をかけ「適当にゆっくりしててね」と告げると、航平にお茶を出したのちすぐさまキッチンへ向かい支度を始めた。
 ボタンを一つ外し、締まった首元を解放させ再度四方を見渡す。
 航平は無意識に、同居当時の希美花の部屋を想起した。割かしインテリアに拘りを持っていた希美花のそれと比べると、洋服やアクセサリなどの装飾品が多く目立つものの、圧迫感は無く、多少生活感を感じさせる部分はかえって温かみがあって、居心地は悪くない。
 扉越しに響く軽快な包丁の音を感じながら、航平はアイボリー色のファブリックソファに背を預けスマホニュースをザッピングした。
「できたよ」
「あぁ、なんか悪いな」
「お待たせ。――と言っても、スープは昨日の残りなんだけど」
 立ち込める湯気と盛り付けられた彩色に、航平は思わず「おぉ」と感嘆した。
 それも、そのはず。
 眼前に並ぶ温かな食卓。艶のある白米に具だくさんのコンソメスープに加え、メインであろう大皿の上には、大好物の酢豚がなだらかな丘を形成していた。
「航くん確か、パイナップル入り好きだったよね?」
「え? あぁ……知ってたんだ」
 小さく笑みを零す瑠璃。「どこかで話したっけ」と思いつつ、航平は即座に、夢中での希美花とのひとときを思い出していた。
 が、すぐさま上塗りされるように――さらにその奥の、高校時代へと記憶が遡っていく。
 そう言えばこのパイン入り、はじめは得意ではなかった。
 けれど。確か瑠璃がキッカケで、好きになったんだったっけ。
 理由は、単なる食わず嫌い。当時付き合っていた瑠璃に強引に勧められ、食べて見たらクセになった。
 懐かしい。そんないつかの些細な昔の一コマを、瑠璃はまだ覚えていた。
「うわ、うまっ」
「そう? フフッ、良かった」
「おかわりいっぱいあるから、遠慮しないでね」
 久々の手料理だった。アツアツの豚肉が口の中でほろりととろける。野菜の味が染みこんだスープとの相性もいい。順調に箸を動かす航平を前に、このところずっと恐怖に苛まれていた瑠璃の表情も溶解し、綻んだ。
 家で、誰かと食事をする。
 あたたかい。
 落ち着いた団欒がお互い久方ぶりだったのか、航平は食事を満喫し、対する瑠璃も心底安堵した様子で箸を取る。当時を懐古するように、二人は学生時代では多く成し得なかった時間を共にした。
「今日はありがと。それに夕飯までご馳走になっちゃって。ホント、おいしかった」
「ううん。こっちこそだよ。ありがとね、いつも」
 暫しくつろいだのち、航平は身支度を整え玄関へと向かう。
「それじゃあ」
「うん」
「また、いつでも食べに来ていいから」
「あぁ、ハハ」
「じゃあ行くわ。ちゃんと、戸締りは忘れずにな」
 航平は軽く手を挙げ、ゆっくり扉を閉めた。
 変わる視界。白から黒へ、芳香と共に明度がガラリと切り替わる。
 柔らかな熱。エレベーターを待つ間、吹き抜ける夏の夜風が心地良かった。
 航平は確認するように小さく張った下腹部をさすると、颯爽とマンションを後にした。
 

「航ちゃん」
「ん」
「あぁ」
「……希美花、か」
「うん」
どうした・・・・?」
「え?」
 直後。その一音と共に、妻の瞳孔が広がった。
「ごめん……疲れてたよね」
「その……出てこようか、迷ったんだけど」
 言いながら、どこか困惑した表情を見せる希美花。何かあったのか。
 ――いや、違う。
「どうした?」だなんて、その返答はおかしかった。間違っていた。
 航平はここが夢中と知りながら、即座に我に返る。
「ごめん希美花、違うんだ」
「あ、ええっと……。そう。じつはちょっと、仕事のことで考え事してて」
「え? 仕事? 仕事で何かトラブルでもあったの?」
「あ、いや。それは、まあ……。大したことでもないんだけど」
 曖昧且つ、矛盾した回答だった。
 ダメだ、上手く意思の疎通がはかれていない。
 瑠璃の一件を「仕事」という抽象にあてがい何とか取り繕うも、余計に心配させるだけだった。
「ねえ航ちゃん。何か、困ってない?」
「あ、ああ、困ってるよ。……いや、というよりその都度困るって感じかな。毎日さ、出勤すればたちまち電話が掛かって来て納期調整の依頼だの何だのって、突発的にタスクが増えちゃって。本来の仕事が手に着かないって感じで」
 臨機応変。今度は上手く、我なりにすばやく自然に返せていると思った。
「そうなんだ。ずっと、大変だね。食事はちゃんと摂れてるの?」
「あ……うん。ちゃんと食べてるよ」
 応対の度、芯をかすめるような絶妙な質問に胸がざわっと鳴る。
 が、それに加え。
 ……何だろう。
 この時、表現しがたい謎の違和感が、航平の脳内を通り過ぎた。
 俺は、瑠璃のことを気にしているのか。単に、彼女の部屋で食事を共にしただけ。それは彼女が日頃の感謝したいというだけであって、別に何もやましいことはない。
 何の変哲もない問答が、何故かチクリと痛かった。現に体のいい文言を並べ、事実を偽って話している自分がいる。
「大丈夫、心配いらないよ」
「そう、ならよかった」
 妻の安心した返答に、こちらも安堵する。
 変に心配させたくはない。誤解させたくもない。
 希美花との時間は、キレイなままでいたかった。純度を保ちたかった。
 上手く誤魔化せたかはわからない。わからないが、対する希美花は心配しつつも徐々にいつもの表情へと戻ってくれていた。
「ねえ航ちゃん」
「再来週の金曜は、早く帰れそう?」
「再来週? 金曜?」
「ああ、大丈夫だよ。さっきはああは言ったけど、なんだかんだで仕事は落ち着いてきてるし」
「そう。良かった」
「ちゃんと時間作るよ」
「うん。じゃあその日まで、会わないでおくね」
「え? 希美花?」
「俺を気遣ってとかだったら、別に気にしなくてもいいのに」
「ううん、違うよ。わざと会わないの。だって、会えない時間が長ければ長いほど、愛情は高まるから」
「だから、ね?」
 嬉しそうに語り、破顔を咲かせる希美花。否定などできなかった。
 二人は一心同体。会いたい時にいつでも会える。だからこそ、ということか。
 それから抱擁を交わし、いつものように口づけを交わす。
 間が空いたとて、刹那。
 航平は希美花と温容を絶やすことなく、交わした約束の日までの最後の時間を過ごした。
 
(……ぅ、ちゃん)
 

 ◆◆◆

 
「なあ航平」
「もしかして、瑠璃ちゃんと付き合ってるのか?」
「グホッ! はあ? 何言ってんだよ」
 昼休み。同僚からの不意打ちを受け、流し込んだコーヒーが逆流しかけ、咳き込む。
「だってお前、最近瑠璃ちゃんと仲良さげに退勤してるの、よく見かけるからさ」
「違う。それはたまたま時間が合うってだけで。それに方向も同じだし」
「ホントか?」
「ああ。それに瑠璃は、その……じつは同郷なんだ」
「え、そうなのか? お前、それ早く言えよ」
 なぜ同郷にこだわる、と思いつつ。
 それよりも、前みたく「奥さんがいるのに」などと追及されるかと身構えたが、そうはならなかった。既婚者であると知りながら、その後も一向に触れてこないのは、コイツ自身オンナ関係でやましいことでもあるのだろう――などと邪推しつつ、航平は適当に相槌を打つ。
「ああーっ! オレも早く彼女欲しいー!」
 違った。おそらく違う。
 突然声をあげ、同僚は願望を垂れ流し始めた。
「ビックリした。何だよ、急に」
「悪ぃ。いやな、この前大学からの友達と飲んでて色々話してたんだけど……。『お前は理想が高すぎる、もっと現実を見ろ』なんて、方々から言われてさ」
「――『、見すぎだ』って」
 落胆を露呈させながら、同僚はそこからまたつらつらと愚痴を吐き出す。

 夢。

 その単語に反応するように、反射的に背筋が伸びた。
「なあ航平。誰かいい子、紹介してくんない?」
「あ、あのさ」
「おう?」
「それはゴメン」とすぐさまシャットアウトし。
 ふと気になり、航平は聞いてみた。
「そういや、医学界で少し前から話題になってる夢現手術ってあるだろ? あれ、どう思う?」
「むげ……ん? む、げ……」
「あぁ、あれな。確か脳移植の一種で、夢の中で愛する人と共存できるっていうやつだろ?」
「拷問だな、ありゃ」
「ごう、もん?」
 航平は息を呑んだ。
「ああ。まあ気持ちはわかるよ。けど実体としては存在しないんだし。そんなことしたら、新しい恋もできないじゃん。いや、してもいいのか……夢の中にいるだけだもんな」
「や。でもでも、オレにはやっぱ無理。一見ロマンチックにも見えるけど、言うなら自分の脳みそに、他人が棲みついてんだぜ。頭ん中四六時中見透かされてるようで怖いわ。うん、マジ怖い。拷問だよ」
「見透かすって……会うのは夢の中だけなんだぞ。別に見透かしてはないだろ」
「そうか? んなもんわかんないぜ。それに何するにも、後ろめたくなるっつうか。長い人生、人肌が恋しくなる時とか、男にはどうしてもって時あるだろ。なのに、そんな手術しちゃったら」
「オレにしてみればあれは、精神的な去勢と同じだね」
 半ばお経にも似た口調で、それでいて舌鋒鋭く言葉を並べたてる姿に。
「ょ……せい……」
 航平は、言葉を失っていた。
「お前もそう思うだろ」
「いや……俺は別に」
 自分から聞いていながら、航平はそれ以上語るのを止めた。というより、言葉が出なかった。
 茫然自失の中、ぶら下がった両の手にじりじりと熱が帯びる。手にしていた缶コーヒーが、ベコッと変形した。
「やばっ、時間」
 話を切り上げ、同僚はそそくさとデスクのほうへ歩いて行く。航平も後に続いた。
 歩幅が大きい。靴底に泥を塗り付けるような歩調だった。無意識だった。
「拷問」「実体がない」
「怖い」「後ろめたい」
「人肌」
「去勢」
 いざ当事者として改めて立つと、言葉を受けると、違う。
 航平の目には。
 前を行く同僚の姿が、憎らしく映っていた。


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