ディア・ソムニア【第七話】
「うそ」
「降ってきちゃった……」
コンビニへ入ろうにも、運悪く近辺には見当たらない。
打ち付ける雨音。漂うアスファルトの匂い。予報には無い、まさかの天候だった。
「とにかく急ごう」
夏とは言え、夜の降雨はじわじわと体温を奪ってゆく。
この日。途中スコールにも似た雷雨にも見舞われ、航平と希美花は傘も持たないまま、駆け足で帰路を急いだ。
「ハア、ハア」
「航くん、ちょっと待ってて!」
ヒールを脱ぐとすぐさま瑠璃はバスルームを経由し、居室へと向かう。
「はいコレ。使って」
「あぁ。ありがと」
柔軟剤のいい匂いがした。手渡されたバニラ色のバスタオルをもらい受け、航平は濡れた髪とジャケット、スラックスの水分を拭き取る。
「着替え……確かあったはず」
「航くん。先、シャワー浴びていいよ」
あまりに自然だった。さも当たり前かのような口調に、航平は「えっ」とたじろいだ。
「いや、いいよそんな」
躊躇するも「何で?」と、即座に瑠璃が仔犬のような眼差しを向ける。
「ありがと瑠璃。でも、そこまでしてもらわなくても」
「ダーメ。だって、こんなに濡れてるんだよ。風邪でも引いたら、それこそ責任感じちゃうよ」
「ええっと、航くんでも着られそうなスウェットが、確か……」
似ている、と思った。
世話焼きな性格。少々強引ながらも、慈愛を感じさせる語り口調。一つ一つが、希美花のそれと重なって見えた。最近よく思う。
言いながら瑠璃は、部屋着を探すべく奥へと消える。遠巻きで「ほら航くん、早く早く」と何度も急かされ、航平は半ば強制的な形でバスルームへと歩を進めた。
その後シャワーを借り、瑠璃が用意してくれた部屋着へと着替える。
「あれ。これは?」
「うん? ああこれ? ――ロールキャベツ」
「いや。そう、なんだけど」
航平がリビングに向かうと。
お待たせというように、テーブルの上に新たな彩色が並んでいた。
「前と同じく、これも昨日の残りなんだけどね。でも、味には自信あるから」
「温まるから食べよ、ね?」
「い……いいのか?」
「もちろん。じゃあ航くん、先食べてて。わたし、軽くシャワー浴びて来るから」
「味には自信ある」「シャワーを浴びて来る」――二つのその言葉が脳内で錯綜し、心拍が一瞬乱れる。航平は焦燥した。無意識に体温が上がった気がして、心中で慌てた。
首から下げたバスタオルでガシガシと髪を拭くことでこれをどうにか払拭させると、配膳を終えた瑠璃は入れ替わるようにして、浴室へと消えていった。
変な気持ちだった。言葉にすれば、如何ともし難い感情だった。
テーブルの上に、均一に並んだ食皿。気づくと、以前は見かけなかった新しい箸が置かれている。黒く、長い箸だった。
視覚と嗅覚を刺激され、腹の虫がぐうぐうと鳴った。ここまで走ってきたせいもあるかもしれない。絶えず放たれる湯気に誘われるように、航平は着座した。
ツヤのある白米が、頭上の照明に反射する。
これも、前のと違う。大きい。
持って傾けてみると、サイズも柄も、初めて目にするものだった。
「じゃあ、いただきます」
航平はひとくち、口に運んだ。粒だっていて、甘い。そして咀嚼しながら箸を下ろし、挟み込んだ赤と緑の茶褐色の彩色を、舌の上に運ぶ。頬が緩んだ。アツアツの肉汁が滑らかに喉元を滑り流れてゆく。五日間の疲れがじんわり解消された気がした。
そこからは止まらなかった。視覚、嗅覚、味覚が満足する。満たされながらも航平は、聴覚については一方で、浴室へと集中させていた。
何というか。先に食べ終わるのは、何だか忍びない。
だからが故、航平は牛歩の如く、ゆっくりと咀嚼することにした。
少しして、ドライヤーの音が聞こえて来た。さらに数分が経ち、ドアが開いたと同時に「どうかな?」と、瑠璃が顔を覗かせる。航平が感想を述べると、瑠璃は満面の笑みを見せ、腕をピンと伸ばした。おかわりの合図だった。
手際よく自分の分も盛り付け、部屋着を纏った瑠璃が隣に座る。職場と同じ並び。だが航平は、背筋を正した。
動く度に、淡いピンクのサテン地がさらさらと音を立てる。ボタンの付いた薄いシャツに、丈の短いホットパンツ。夏仕様らしく、瑠璃の白い肌が随所に際立っていた。
「……いしょ」と、至近距離で声音を受信する。動作と共に、シャンプーの甘い香りがした。微かに揺れる毛先は、まだ少し濡れていた。
航平は冷水を含んだ。夕食で得た外からの温度に加え、内々から何か、新しい熱が生まれている気がして。
航平はさらに水を含んだ。ごく、ごくと喉が鳴った。
真隣で「うん、うん」と頷き、自賛する仕草が映り込む。想像以上にうまくできたのか、瑠璃は嬉しそうに破顔を咲かせていた。その様子を見ながら、彼女が現在怖い目に遭っている最中だと思うと、航平はどこかやるせない気持ちになった。
「そうだ。ねえ航くん」
「良かったら、飲まない?」
ぺろりと完食し、「すごくおいしかった」と告げた、その矢先。思い立ったように瑠璃が立ち上がると、キッチンへ向かい冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
「食事と一緒に出せば良かったね。ごめんね、気が利かなくて」
瑠璃はそう言うと、返答を待たずして缶ビールを航平の手に添えた。
「いや、けど」
言いつつも、掌上の伝わるスチール越しの冷気が気持ち良い。
瞬間、航平は息を吸った。瑠璃が行き来した風に乗り、甘い濃度が増したのがわかった。
「いいよ遠慮しなくて。飲もっ」
瑠璃は軽くウィンクを放つと、隣で食事を再開させる。どこまでも寛容だった。
それは、付き合いのある同郷からなのか。見知った先輩からなのか。それとも、即席のボディーガードからなのか。
航平はただ見つめた。見つめ、見入っていた。
一ノ瀬瑠璃という、その実体を。
濡れ滴る厚めのキャベツに、今にも崩れ落ちそうな肉塊。その二つが、上手に挟まれた細い箸の間で寄り添い合い、小動物のような口元へと運ばれていく。
少し大きすぎたのか。口の中に入れた直後、真っ赤な舌先が慌てたように顔を出した。そしてまみれた唇に右へ左へと這い回り。丁寧に、キレイに、上塗りしていく。
――ごくり。
久しぶりに心から飲みたいと思ったそのひと口目は、食事とはまた別の意味で、格別で。
瑠璃に目配せし首肯すると、航平は喉越しに悦の源泉を流し込んだ。
その日を境に。
航平は定期的に、瑠璃の自宅で夕食を摂るようになった。
「つい、作り過ぎちゃって……」「最近料理にハマってて、味見してほしい」などと語る瑠璃の言葉を免罪符に、自らに許可を下し、居室へとあがる。
都度ふるまわれる家庭的な料理の数々。いつしか内心、楽しみに感じている自分がいた。
三日おき、二日おきと。徐々に間隔を狭め、増えていく通い。
けれども会社では、瑠璃は入社当時と変わらない距離感で接し、航平もそれに合わせ職務に邁進する。そういった部分も、航平には好感に映った。
日常に加わりつつある、夜の時間。待ちわびるかのように、夕刻になると不思議と、心身の疲労が緩和されている。そんな気がした。
迎えた週の木曜。トイレで用を足し鏡の前に立つと、航平はまじまじと凝視した。額と口元にあったニキビが、いつの間にか無くなっていた。肌ツヤもいい。
食生活が変わってきたからか。鏡の映る自分の顔はいつもより明るく、映えて見えた。
一方、入社からそれなりに時が経ち、瑠璃はすっかり業務にも慣れていた。その活躍は以前よりも増して目覚ましく、おかげでここのところずっと、社員全員が定時に退社できている。もちろん、航平も。
だが――明くる日。
翌日だけは、いつもと違っていた。
「瑠璃。悪いな、ホント」
「ううん。気にしないで」
「さて、と……やるか」
窓の外には、ぼんやりと月が浮かんでいる。静まり返った空間に、二人だけのキーボードが未だ音を立てていた。
昨日までとは打って変わり、この日は繁忙期以来久しぶりの残業だった。
出勤して早々、航平が担当していた部品の急な未納トラブルに見舞われ、当初のスケジュールが大幅に変更。結果一日の大半を得意先との交渉に費やした、そのせいでの残業だった。
そこへ「わたしも手伝うよ」と言って、親切に残ってくれた彼女。今回対象となった部品は、航平が担当している製品。一度は断ったものの、「時間なら大丈夫。今日は週末だし」と返され、航平はやむなくその言葉に甘える形となった。
夜は外線に加え、内線すら掛かってくることは無に等しい。自分の仕事に集中できるのが定時後からという営業職にジレンマを感じながらも、航平はスパートをかけた。来週に提出必須となっている見積資料を完成させ、続けて工場管理向けの納入日程表を作成する。
急を要するタスクに一極集中できているのは、隣に座る瑠璃が、他に抱えている業務を担ってくれているからだった。
「瑠璃、大丈夫か?」
「うん。全然大丈夫だよ。こっちも、あともう少しで終わるから」
三時間後。大いなる瑠璃の助力もあり、航平は翌週に回すことなく、大方のタスクを片付けることができた。
「帰ろ、航くん」
ようやく一段落し、二人して退社する。時刻はすでに、午後九時を過ぎていた。
「今日はありがと。瑠璃のおかげで助かったよ」
「ううん。でも、力になれたなら良かった」
「そうだ瑠璃。お腹空いてるだろ。せっかくだから、何か食べてこうか。ご馳走するからさ」
お礼も兼ねてと、航平は瑠璃を誘った。
「ありがと。嬉しい」
「でも……それはまた、今度ってことで」
「じつはね。今日の朝のうちに……夕飯、作っちゃったんだ」
申し訳なさそうに語るも、最近の瑠璃を思えば珍しくもない。朝から作り置きしたと聞いて、むしろ関心を覚えた。現に航平は、その恩恵を授かっている。
「そっか。じゃあまあ、そういうことなら」
「うん。だからね航くん」
「――今日も、どう?」
放たれた不意な上目遣いに、航平は足を止めた。動揺した。
長時間手伝ってくれた彼女の誘いを、断るなどできない。むしろ航平にはご褒美に思えた。
先程ああは言ったものの、レストランよりも居酒屋よりも、あの部屋の方が落ち着く。
けれど誘われて、実際、そこまで驚きもしなかった。
今朝がた支度を済ませた、そう話した時点で。「一人だったら、ここまでしないよ」と言われているような気がしたから。だからこそ、航平は少し期待していた。そして瑠璃からのその言葉を待っていた自分に、自分自身ズルい人間だとも思った。
彼女を前に、航平は素直になれなかった。
「けど、今夜はもう遅いし……」――などと、意に反し繕ってしまう。
「わたしは全然大丈夫。だから行こっ、ね」
そんな航平を優しく、それでいて、強引に。
いつも導いてくれる彼女。いいなと思った。
まもなくして、上着の裾が白く細い指と指に挟まれ、引っぱられる。
航平は相好を崩し。
彼女のその幼子のような微力を、静かに受け入れた。
いつもの香り。彼女の香りが広がっている。
いつもの流れ。テキパキと支度をするその姿を、眺める。
そしていつものように。航平は「いただきます」と手を合わせた。
相変わらず、うまい。使用してまだ間もない箸と茶碗が、すでに自分の手に馴染んでいた。
「どうかな」
「うん、うまい。どれもおいしいよ」
悪いわけがない。瑠璃の料理スキルは、もはや言うまでも無かった。
あれ以降引き続き、瑠璃へのいたずら電話も不審者の気配も無く、むしろご馳走になってばかりで申し訳ないと思う。思いながらも、箸は止まらなかった。
「あっ! また出すの忘れてた」
途中瑠璃は立ち上がると、キッチンへと急いだ。そして冷蔵庫の中で何かもぞもぞと呟きながら、両手に持てるだけの色とりどりを抱え戻って来る。「あ、ありがと」
「ううん。今週もお疲れ様――はいっ」
注がれていくグラス。じわじわと隆起する泡が光輝を放ち、万華鏡のようにキラキラしていた。
「じゃあ……お言葉に甘えて」
「フフッ。買い込んであるから、いっぱい飲んでいいよ。金曜なんだし」
来る度に、充実感を覚える。どこまでも気が利いていた。
明日は休み。仕事はない。
言う通り、今日は金曜。
だから。
この満たされた時間を、空間を、もっと。
微笑む瑠璃に応えるように、航平はグラスを掲げた。
そしてそのまま、口元へと持っていく。
「きん、よう……」
けれど直前。
何故か、航平の手は止まった。
そう。今日は金曜。
そうだ。そうだった。今日は、金曜日。
だが、単なる金曜日ではない。航平は思い出した。
あの日、交わした約束。希美花と交わした約束。
その約束の日から、二週間後の金曜が「今日」だった。
航平は慌てて時計に目をやる。時刻は、午後十時を優に越していた。
そわそわし口を付けないまま、グラスを置く。もう、行かないと。
瑠璃に何て言おうか。航平は咄嗟に、理由を思考した。
――が、ふと思った。
いや、いいんだ。
彼女は。
妻は、家にはいない。
希美花はこの中にいる。
夢の中に。
航平はまじまじと、食べ終わった自分の箸と空の茶碗を見つめた。
この好意を、無下にはできない。するべきじゃない。そう思った。
そして、何より……。
長居はせずとも、あと、もう少しだけ。
明日は昼時まで眠れば、それでいい。
大丈夫。時間なんていくらでも、作れるのだから。
気を改め、航平は座り直した。
「――カンパイ」
◆◆◆
「希美花」
「希美花、いるか?」
「あっ」
「航ちゃん」
「久しぶりね」
「ああ、そうだな」
瑠璃の自宅で夕食を済ませ、ようやく帰宅する。
ベッドに入ったのは、午前一時過ぎのことだった。
「ほら希美花。早くこっち来て座って」
夕どきの斜陽がオレンジに彩り、よりホームパーティーの様相を呈する室内。
夢中では、夜はこれからという時間帯だった。そして幸運なことに、酒気は帯びていなかった。
航平が差し伸べると、希美花は嬉しそうにその手を掴む。そうして手繰り寄せ、抱きしめた希美花の身体は、あの日のまま。
「これ、全部航ちゃんが?」
「そうだよ。本当なら一から全部、自分の手で作りたかったんだけどね。でも料理なんてほとんどして来なかったから。だから、ここが夢で良かった。なんてね」
希美花は嬉しそうに微笑んだ。その満面に、航平はホッと胸を撫で下ろした。
良かった。上手くいったみたいだった。
正直直前まで、忘れていた。希美花も照れ臭かったのだろう。だから自分から、今日が「誕生日」であることを明かさなかったのだと思う。
「誕生日おめでとう、希美花」
「ありがとう……嬉しい」
「航ちゃん、もしかしたら忘れちゃったのかなって……。じつはそう、思ってたから」
「そんなわけないよ。だって約束しただろ? 今度は俺がお祝いするって」
「さっ、食べよ」
初めてだったが、上手くいって良かった。行きたい場所に行くのはこれまでも数多くしてきたが、ここまで凝った装飾と食事を、それもこんなにもたくさん用意した経験はない。
ベッドに入ってから堕ちるまで、イメージした空間が隈なく再現できていた。
「希美花」
「うん?」
「コレ」
「えっ、うそ」
「これって……ひまわり?」
「ああ。イタリアンホワイトっていうんだ」
薔薇の花束と迷ったが、ベタかなと思い断念した。それに指輪やネックレスは、過去に渡したことがある。だからもあって、航平はイタリアンホワイトの花束を希美花にプレゼントした。
「航ちゃん……」
感涙を浮かべながら、希美花がギュッと身を寄せる。二人は見つめ合った。そして潤んだ瞳から伝った一滴を、航平は親指で優しく受け止め、首肯する。対する希美花もゆっくりと頷き、言葉にしないまま、確かめ合った。
「愛してるわ、航ちゃん」
「希美花。俺もだよ」
希美花は航平を求め、航平も同じように返した。
二人は久しぶりの再会に歓喜し、祝福し。
今まで以上に情熱的な夜を過ごした。
翌朝。昨晩はいろいろと忙しく、さらにそれなりに酒を摂取したにもかかわらず、早々に目が冴える。
夢中から起床までの時間が短かったせいもあってか、航平はまどろみから覚めるとすぐ、気づいた。
ひんやり――冷たい。
思いつつも、一方で。航平は希美花との時間を反芻しながら、深く安堵した。
股下に手を伸ばし、中を確かめる。それは証だった。
希美花との、あの夜。愛を確かめ合った証。
噛み締めながら航平は、以前同僚が口にしていたあの言葉を思い出した。
――去勢だなんて、馬鹿馬鹿しい。
カーテンの隙間から差し込む陽光に、ハァと息を吐く。
ベッドから起き上がると、航平は着ていたハーフパンツをすばやく脱ぎ、下着を履き替えた。
休日とはいえ、早起きは悪くない。
けれど一方で、若干頭痛がする。軽い二日酔いだった。
「そうだ」
カーテンを開け、伸びをした直後。航平はふと思い立ち、浴室へと向かった。
「…………」
「うーん……」
だが、探せど探せど。
洗濯カゴの中には見当たらない。ここじゃないのか。
「あれ」
「そう言えば瑠璃から借りて、そのまま着て帰ったあのスウェット――」
「どこいった?」
