ディア・ソムニア【第四話】
「……航くん」
思わぬ再会だった。まさか彼女が上京し、そして、同じ職場にやってくるだなんて。
「なんだ航平。もしかして、二人はお知り合い?」
「え、ええ……まあ」
航平は首筋を掻きながら答える。一方の彼女は少し恥ずかしそうにしながらも、これから務める新しい職場に顔見知りがいたことに、心なしかホッとしているようにも見えた。
彼女――一ノ瀬瑠璃は、航平より一つ年下。地元である岐阜に住んでいた頃、同じ高校に通っていた同郷だった。さらに、高校でサッカー部に所属していた航平は、彼女を単なる同郷以上によく知っていた。
じつは瑠璃は、当時のサッカー部のマネージャーをしており、そして――。半年間だけだったが、交際をしていた過去があった。
「知り合いならちょうど良かった。それじゃあ一ノ瀬さん。これから一ノ瀬さんにやってもらう業務内容だけど、ひと通り航平の方から教わってもらえるかな」
「えっ、俺ですか?」
課長はそう言って、彼女を促す。航平は戸惑うも、同僚たちから「頼んだぞ」と拍手を送られ、当の瑠璃も万皿でもない様子で「よろしくお願いします」と会釈をされた。
部内の社員は皆、新人の頃に一連の庶務は経験しているため、指導自体は出来ないことも無いが……。十年を超えての再会に、航平は少し緊張していた。
「じゃあ一ノ瀬さんも加わったという事で、今週からまた宜しく頼む」
「はい!」
朝礼が終わり、各自席へと散らばり始める。航平は右隣りの席、書類の束が山積み状態となった無人デスクを即座に片し「じゃあ瑠璃っ……あ、いや……。一ノ瀬さんはこの席に」と言うと、そっとビジネスチェアを引いた。
「じゃあ改めて、よろしく」
「……はい。よろしく、お願いします」
ぎこちないやり取り。先程とは異なり、心なしか瑠璃の方も緊張しているように映った。改めて間近で対面したことで彼女の声は上擦り、肩も少々張って見える。
それもそうか。知り合いとはいえ、そもそも今日が初日の彼女としては当然のこと。指導を任された以上、知人どうこう関係なく働きやすい環境をサポートしてあげないと。彼女は貴重な戦力であり、言わば救世主。航平は心中でかぶりを振り、瑠璃がチェアを引いたタイミングで口火を切った。
「だいぶ、久しぶりになるね。何年ぶりだろ」
「そう、ですね。わたしも驚きました。まさかこんな形で航く……いや、航平さんに再会するだなんて」
大人では当たり前の敬語使いが、ここでははからずも、違和感に変わる。
瑠璃は当時、自分のことをいつも「航くん」と呼んでいた。そんな彼女が普通に「さん付け」で、且つ敬語で応対するなんて。今はもう、高校生でもマネージャーでもない。当たり前のことなのに、何故だか少し胸がざわっとした。
「結婚……されたんですね」
「えっ?」
「それ……」
瑠璃はか細い声で言うと、視線を航平の左手の薬指へと向ける。
「あっ、ああ……うん。まあ、ね」
同じく上擦った声で、航平はしどろもどろになりながら頷いた。本当なら妻がいることを、堂々と答えるべきところ。けれど無意識に「いる」なのか、もしくは「いた」というべきか、反射的に迷いが生じてしまった。別に後ろめたいことは何も無い。ただ「夢現手術」を受け、自分の中に妻が存在しているという事実を、面と向かって言えるモノでもなかった。そもそも同僚にすら話してない事柄だ。
航平は反応に当惑しつつ、ふと瑠璃の整えられた爪から細い指先へと視線を流す。彼女の薬指には、指輪は見られなかった。思わず「そっちは?」と尋ねたくなるも、今のご時世健全な質問でもない。そんな折、離れたデスクから課長が瑠璃の様子を伺うのが視界に入ったために、航平はただ首肯するに留め「じゃあ、早速なんだけど」と話題を逸らし、業務の説明を始めた。
「こちら、全て入力終わりました」
「ありがと。そしたら次は、ええっと――」
電話応対に始まり、納期の一覧リストの発行と得意先への回答確認。次に部内で堆積してしまっていた出張旅費、会議費、交際費等の申告書の作成に先々の会議室の手配など、航平は瑠璃に一つ一つ大小様々な事務作業を教えていく。割合難しくない業務ではあるが、忙しいとついおろそかになってしまう作業ばかり。当の瑠璃は前職でも事務をしていたらしく、順応が早く淡々とこなしてくれていた。
そして余裕ができると、各担当が抱えている資料作成のサポートも請け負うようになり、今後数字入力やデータのダブルチェックまで彼女が一括し担ってくれると、大幅な業務の効率アップが見込まれる。既にその片鱗が浮き彫りにもなり、部内の社員たちも嬉しそうな様子が伺えた。
高校時代マネージャーを経験していたこともあり、瑠璃のアシスタント術はそれこそ天性のよう。さらに人当たりも感じも良く、彼女が入ったことで不思議と、部内の空気が柔らかくなったようにも思えた。
瑠璃はたちまち部長や課長、その他全員に気に入られる存在へとなっていく中、特段問題も無く月火水木と日々が過ぎた。三日も経てば彼女は、大方の業務を航平の指示なくこなせるようにもなり、これならと、驚くべき即戦力に感心する部の社員たち。
そうして迎えた金曜。瑠璃が入社して、最初の週末。
最低限のルーティンワークとしては、教えられることはもう無いだろう。航平は「一応、これで一通りは教えたかな。あとはまあ適宜ってことで。またわからないことがあったら言ってよ」と言い残し、自席のノートパソコンへ視線を移した。
「ありがとうございます。忙しいのに時間割いて、いろいろ教えてもらって」
「いいよ全然。これも大事な仕事なんだし。それに瑠璃のおかげで、俺も他の皆も負担が減るわけだしさ」
「はい。――わたし、精一杯頑張りますね」
「うん」
「あっ、そうだ。あとさ。じつはずっと、思ってたことなんだけど……」
「え?」
「その、何だかずっと、違和感があって。上司とかが居たりする場はまあしょうがないとしてさ。二人で話してる時は別に、敬語じゃなくていいから。俺たちもともと知り合いなんだし」
「えっ。あ、でも……」
「むしろ高校の頃みたいに呼んでくれた方が、何かしっくりくるっていうか」
「そう、ですか」
沈黙。そして躊躇い、もじもじする瑠璃、だったが。
「では、わかりました。ってあれ? これも違いますね……。じゃあ――うん」
照れ臭そうに俯きながら、瑠璃は「ありがと、航くん」と笑顔で付け加えた。
「っ、あぁ」
言った傍から、航平は変に鈍った反応を返す。
その時、ふと。
彼女の微笑みが、高校時代の「彼女」のそれと重なって見えた。
◆◆◆
「いや彼女はな、じつは他部署と取り合いだったんだよ。今はどこも人手を欲しているからな。だけどオレがどうしてもって何度も何度も熱弁をふるい懇願して、それでウチの部に来てもらったって、そういうわけ。な? どうだ? がはははっ」
哄笑が沸き、賑わう個室。生ぬるくジトっと油分を含んだ空気に思わずネクタイを緩めたくなるも、ぐっと我慢する。
週末であるこの日。駅近の居酒屋にて、瑠璃の歓迎会が行われた。そして開始からほんの一時間足らずで、部長はすっかりできあがってしまっていた。
航平は正直、飲み会が好きではない。今の業務体制にも言えることだが、時代から隔離されたように旧態依然とした世界に身を置くのが、億劫だった。まさにその筆頭ともいえる光景が、眼前で披露されている。テクノロジーはどんどんアップデートしていく一方で、一端では未だそうでも無かったり。勝ち誇ったように弁をふるい続ける上司の姿にいささか呆れつつ、航平は手元のグラスに視線を逃がした。
とはいえ今日は、彼女の歓迎会だ。
「ねえ航くん。わたしお酒弱くて、当日強引に勧められたりしないか、不安で……」
「そっか。じゃあ」
事前にそう瑠璃から相談されていた航平は、瑠璃が部長の正面にも隣にもならぬよう、さりげなく斜向かいに座らせ、常時身代わりとなり自慢話に相槌を打った。
「……ありがとね、航くん」
肘の裾をくいっと摘み、隣に座る瑠璃が取り皿を持ちながら呟いた。
「俺は大丈夫。ごめんな。こういうトコ、まだ古くてさ。聞き流してくれていいから」
航平が囁くように言い返すと、瑠璃は「ううん」と小さく笑みを添え、理解を示すように頷いた。
そうこうし、開始からおよそ二時間後。
部長の饒舌は完全に収まり、当の本人は壁にもたれ心地良さそうに眠りについている。解放された航平は、すっかり乾いてしまった皿へと漸く箸をつけた。
「はいコレ。良かったら」
すると隣に座る瑠璃が、茶碗によそった焼き飯と比較的鮮度の良い刺身をピックアップし、別皿に盛り置いてくれる。
「ありがと」
「うん」
「ところで、ねえ瑠璃ちゃん。瑠璃ちゃんは今、付き合ってる人はいるの?」
もうそろそろでお開きというタイミング。だが部長が沈黙な状況に肖るかのように、瑠璃の対面に座る同僚の男子が突如、ストレートな質問を彼女にぶつけた。
「あっ……いいえ。今は、特には」
俯きがちに答え、髪を耳にかける瑠璃。
「え、マジで?」
そこへ新たに一人二人と話に加わり「うそ!」「信じらんない」などと、前のめりに言葉を放出する同僚たち。徒党を組んでテンションを上げる一方、当の瑠璃は苦虫を噛み潰した表情を繰り返している。瞬間彼女は航平の方へチラリと目配せし、何か同意を求めるような表情を見せた、ような気がした。
ああだのこうだのと、プライバシーを探るのは良くないだろう。よくある恋バナとはいえ、助け舟をどう出すべきか。聞き耳を立てながら、航平は熟考する。
実際瑠璃は控えめに言って、可愛いのは確かだった。それはきっと、ここに居る誰もが思っていることだろう。言うなら、高校当時のあどけなさをそのままに、成人に成ったような……。それでいて大人びた麗しさや整然さなんかも、佇まいやふとした所作から垣間見えたりもする。
「へぇ。ならさ! どんな人がタイプ? そうだなー。じゃあ単刀直入に、この中だと誰?」
「はいはいもうその辺で。そろそろ時間だから出ないと」
「部長! 部長! 起きてください。もうお開きです。行きますよ」
まったくデリカシーがない。同僚の質問を塞ぐようにして、航平は間髪入れず口火を切った。合コンでも大学のサークルでもないんだ。ましてや、歓迎会だってのに。
男が集まるとついこうなる。飲み会の風習自体消失してきている昨今、その理由も頷けるなと実感しながら航平は部長を起こし、周囲に帰り支度を促した。
「瑠璃ちゃん、もう一軒どうだい? 途中寝ちゃって全然話せなかったしさ。ね?」
「はいはい部長。さっ、タクシー待ってるので行きますよ」
「お、ちょ、ちょっと航平! なんだよおっ、おい」
「それじゃあ、お願いします」
全く、いつの時代だよ……。と呆れつつ、停車したタクシードライバーに部長の自宅の最寄り駅を伝え、航平は半ば強引にドアを閉めた。
千鳥足の部長を乗せ走り去る車に、大きく手を振る。度々経験してきた光景だ。どうせ朝には忘れている。
「悪いな航平。それに瑠璃さんも、所々すまなかったね。どうか気を悪くしないように」
「いえ、大丈夫です課長。今日はとっても楽しかったです。ありがとうございます」
時刻は夜の十時。こうして歓迎会は終了し、皆ぞろぞろと駅へと向かって歩いて行った。
「じゃあお疲れさん。また来週」
航平は少し先の、もう一つの駅から乗った方が近い。
そう判断し、改札を抜ける課長や同僚たちを見送り、一人残った。
――と、思いきや。
何故か瑠璃が隣に立ったまま、自分と同じように皆に手を振っていた。
「あれ? 瑠璃は乗らないの? それか、バスとか?」
「いいえ。あたしも電車ですよ」
「じゃあ、何で」
駅前に残った二人。
航平がホッとする間もなく、すると含みを持たせるように瑠璃が距離を詰めた。
「飲み直しません? ――二人で」
「えっ?」
やっぱり今日の飲み会、気を悪くしたか。言葉を受け、航平は一瞬そう思ったが……瑠璃の表情は上機嫌にも見えた。
多分、違う。
「え? あ、ああ……。それは別に、構わないけど」
「でも、もう十時過ぎてるし。それに今日はもう疲れたんじゃ」
「大丈夫です。ここから自宅のマンションまで、そんなに遠くないですし。それに終電まで、まだ二時間もあるんで」
「ダメ……かな」
その言葉を最後に、これまでの敬語が一切取り払われた。さらにどこか甘えたような上目遣いを浴び、航平は再び淡い高校時代を思い出す。
ざわつく胸。自覚しつつも航平は、今日は仕方ない、そう思った。
「せっかくの歓迎会の日だし。じゃあ、少しだけなら」
「なら少しだけってことで――行こっ、航くん」
「あ、あぁ」
瑠璃はニコッと笑うと、航平の右腕の裾をくいっと引き、再び夜の店街へと促した。
