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評価を手放したら、過去が静かに動き出した

「辛かったことも、きっと意味があったんだよ」

そう言われるたびに、どこかで引っかかるものがあった。

嘘ではない、と思う。
でも、完全にうなずける感覚でもなかった。

苦しいことが多かった。
悲しいことも、何度も心が折れたことも、数えきれないほどあった。

そのたびに立ち上がって、また歩いて、また転んで。
気がつけば、その積み重ねが今の自分を形づくっていた。

それは事実だ。

でも──だからといって、「あの苦しみには意味があった」と言い切ってしまうことに、どうしても小さな違和感が残る。

本当に、そうだろうか。


出来事を「良い経験だった」と処理しようとすると、不思議なことが起きる。

ひとつは、美化

「あの苦しみがあったから今がある」と物語にしてしまう。
すると苦しみそのものが"必要だったもの"にすり替わる。
まるで、傷つかなければ今の自分にはなれなかった、と言っているようで。

もうひとつは、自己否定

「あんなことがあったのに、まだこの程度か」と、自分を裁く材料にしてしまう。
出来事が大きければ大きいほど、今の自分との落差が重くのしかかる。

そして最後に、停滞

「あれは良かったのか、悪かったのか」と評価し続けて、そこから動けなくなる。

良い/悪いで処理しようとした瞬間、出来事は"裁かれるもの"に変わる。
そして裁かれるものは、いつまでも片づかない。


あるとき、ふと気づいたことがある。

評価を挟まなければいいのだ、と。

否定も肯定もしない。
そんな出来事があった。
そして今、僕はここにいる。
僕には目的がある。
ただそれだけ。

出来事に物語を被せない。
正当化もしない。
「良い経験だった」とも「無駄だった」とも言わない。

ただ、使うか、使わないかを自分で選ぶ

楽しかったことも、悲しかったことも、成功も失敗も。
それらをエネルギーとして扱うかどうかを、自分で決める。

これは悟りでも真理でもない。
宇宙の法則を見つけたという話でもない。

「僕がそうすると決めた」というだけの、宣言だ。

宣言だから、誰かに証明する必要はない。
宣言だから、正しいかどうかも関係ない。
ただ、僕がそうすると決めた。


「すべてを燃料にする」と言うと、どこか力んだ響きがある。

まるで、何があっても歯を食いしばって前に進め、と言っているように聞こえるかもしれない。

でも、実際は違う。

進めない時もある。
立ち止まることもある。
身体が動かない日だってある。

そのとき、「進めない自分」を否定しない。

止まっているという事実がある。
それだけだ。

そしてその「止まった経験」すら、いつか使える資源になるかもしれない。

使いたくなければ、使わなくていい。
嫌なら手放す。
使えると思えば、拾い上げる。

その選択の主導権が自分にあること。
それが、この宣言の核にあるものだ。

無理にすべてを燃やし尽くす話ではない。
「使うか使わないかを、自分で選べる」という話だ。


過去を振り返れば、苦しみが積み重なっている。
その層は厚い。

でも、それを美化するつもりはない。
「あれがあったから強くなれた」と正当化するつもりもない。

ただ、そういう出来事があった。
そして結果として、それらが積み重なって、今の自分がここにいる。

それ以上でも以下でもない。

必要なのは、過去に意味を与えることではなかった。

目の前にある目的のために、使えるものを自分で選ぶこと。
それだけで、十分だった。

僕がそうすると決めた。

それだけのことが、思いのほか静かな力になっている。


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