短編小説|そのまま行けよ
「俺、この会社、辞めるわ」
社食の味噌汁の湯気の向こうで、相馬が言った。
俺は箸を止める。
「まじで?」
「東京。外資。年収250万円上がる」
軽い口調だった。
だが、その瞬間、味噌汁の味がしなくなった。
今の会社に不満はない。
仙台の中堅メーカーで入社5年目。
仕事は安定していて、上司もまともだ。
それでも、好きだとは言えなかった。
名刺の肩書きだけが変わっていく未来。
それだけが、妙に現実味を帯びていた。
相馬は営業。フロアは違うが、大学からの付き合いだ。
「30前だぞ」
味噌汁をすすりながら、相馬は言う。
「今動かなかったら、一生動けねぇぞ」
箸を持ったまま、指だけが落ち着かなかった。
その夜から、転職サイトをたまに見るようになった。
別に、転職すると決めたわけじゃない。
定年までここにいる自分が、はっきり浮かばない。
転職サイトに、登録だけはした。
画面には年収と成功談が並び、
どの写真も同じ角度で笑っている。
「30歳目前、最高のチャンス」
スクロールするたびに、誰かの人生が軽く見えた。
エージェントとも面談した。
履歴書の「特筆すべき実績」という欄で、
何度も指が止まった。
社内で通じる言葉ばかりが浮かび、
会社の外に持ち出せる言葉が、思い浮かばなかった。
「あなたの市場価値は悪くないですよ」
悪くない。
なのに、指先が冷える。
退職届。
引き継ぎ。
送別会。
上司への報告。
入社1年目、ミスをかばってくれた上司の声が蘇る。
「焦るな。地力をつけろ」
辞めると言ったら、どう思うだろう。
あの昼のことを思い出す。
裏切りのようで、箸を置いたまま、
味噌汁が冷えていくのを見ていた。
その後も、転職のことを考えながら、
何度も国分町を飲み歩いた。
金曜。相馬の送別会。
1軒目は虎屋横丁の奥の居酒屋。
2軒目は稲荷小路の立ち飲み。
3軒目は一番町方面に抜ける手前の、小さなスナック。
ネオンが近い。
客引きの声が重なる。
ビルの隙間から冷たい風が吹く。
焼き鳥の煙、香水、揚げ油の匂い。
全部が混ざって、国分町の匂いになる。
相馬はビールジョッキを掲げる。
「東京で暴れてくるわ」
笑っている。迷いのない顔だ。
俺は焼酎をロックで流し込む。
喉が焼ける。だが、ざらつきが消えない。
「しばらくしたら、お前も呼ぶからな」
その一言で、胃の奥が重くなる。
俺だけが、取り残されている感じがした。
相馬がトイレに立つ。
じゅんこママが俺を見る。
「で、あんたは?」
50代。仙台訛りはやわらかいのに、目は鋭い。
「なんでわかるんですか」
「顔。迷ってる顔してる」
焼酎をもう一口。氷が舌に当たる。
「今の会社、嫌いじゃないんですよ」
「でも?」
「でも……このままでいいのかって」
ママは煙草をくゆらせる。
「辞めたいの?」
「……わからないです」
「怖いのは?」
黙る。
「外に出たら、自分が空っぽかもしれない」
ママは灰皿を引き寄せる。
「この街でね、いちばん多い後悔は、
“決めなかった”ってやつだわ」
煙が、ゆっくり揺れる。
「決めなかった理由は、あとからいくらでも出てくる」
氷が、からんと鳴る。
「人はね、都合のいいほうに言い直す」
ママは俺を見る。煙を吐く。
「同じ言葉でもね、自分の都合で意味変えんだわ」
間があって。
「怖いって言えるうちは、まだ大丈夫だわ」
氷が、ゆっくり溶けていく。
店を出る。
「じゃあな」と相馬が手を上げる。
俺は逆方向へ歩いた。
国分町通り。
空車の列が、途切れずに流れていく。
ヒールが乾いた音を立てる。
黒服と立つ女の子が、
帰る客に「ありがとうございました」と笑う。
客がタクシーに乗り、ドアが閉まる。
笑顔が消える。
転職か。
残るか。
足が止まる。
そのとき。
横を、体を揺らした老人が通り過ぎる。
前歯の抜けた笑顔。
すれ違いざま。
「お兄ちゃん!」
俺は思わず足を止める。
「そのまま行けよ!」
振り返ったとき、同じような背中が何人も流れていた。
何が“そのまま”なのか、わからない。
それでも、声だけが残った。
数ヶ月後。
言った通り、相馬から電話が来た。
「お前、まだあの会社いるの?」
相馬は笑う。
「うち来いよ。上に話通せる。お前ならすぐ通る。
新しいこと一緒に始めようぜ」
年収は上がる。
役職もつく。
電話を切ったあと、その数字が頭の中で跳ねた。
そのまま行けよ。
あの声が浮かぶ。
前へ行け、なのか。
今の場所を続けろ、なのか。
それでも俺は考える。
俺は、本当に相馬の後を追いたいのか。
俺は、自分で選んだのか。
相馬の熱に、浮かされていただけじゃないか。
翌日、迷ってから、俺は相馬に電話をかけた。
「悪い。行かない」
相馬の沈黙が、数秒続いた。
「……そっか」
電話を切って、
PCのデスクトップに残っていた
履歴書のファイルを削除した。
確認画面が出て、指が止まった。
それでも「はい」を押した。
その足で、上司に言った。
「例の案件、俺にやらせてください」
上司は一瞬黙ってから、笑った。
「やっと言ったな」
会議で、止まりかけていた案件を引き取った。
トラブルが出れば、俺が取引先に頭を下げる立場だった。
新規案件の資料を、誰よりも遅くまで直した。
その選択が、正しかったかどうかはわからないまま、
3年が過ぎた。
名刺の肩書きと一緒に、
守るべき部下が増えていた。
「会社、潰れたわ」
電話口の相馬は、
笑っているのに声が少し枯れていた。
俺の喉が、乾いた。
「資金ショート。まあ、しゃーない。
戻るわ、仙台。飲もうぜ」
国分町で待ち合わせる。
ネオンだけは、何も変わらない。
適当な店に入り、向かい合って座る。
「いやー、やられたわ。でも行って良かったよ」
相馬は笑う。
その顔が、眩しく見えた。
グラスの中の氷が、やけに冷たかった。
何杯目かの焼酎のあと、俺は聞いた。
「相馬、そもそもさ、なんでお前転職したんだよ」
相馬は氷を揺らす。
カラン、と鳴る。
「……3年前さ、国分町で飲んでたときにさ」
俺の手が止まる。
「他の人生歩んでみたいなーって、
でも…って悩んでたのよ」
氷がまた鳴る。
「そしたら、変な爺さんがさ、
すれ違いざまに叫ぶんだよ」
一瞬、息が止まる。
「お兄ちゃん!そのまま行けよ!ってさ。
それで決めたんだわ」
相馬が笑う。
俺はグラスを傾ける。氷が、からんと鳴った。
読んでくださって、本当にありがとうございます。
この物語は、過去の記事
「募集|あなたの記憶を、1〜2行だけ」にて
かぷぷ さんからいただいた
「国分町で拾った言葉」のお話をきっかけに
着想しました。
素敵なエピソード、ありがとうございました。
※本作はフィクションです。他の作品はこちら👇
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