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ショートショート|一枚の紙と、偉大な一歩

真夏の外回り中、
古い百貨店へ駆け込んだ。

1階も2階も、
男子トイレの個室は埋まっていた。

社内の会議室と同じだ。

必要なときに限って、空いていない。


3階。

俺は、婦人服売り場の隅にあるトイレへ駆け込み、
3つ並んだ個室のうち、一番奥へ飛び込んだ。


しばらくして、
腹痛との戦いには勝利した。

額の汗を手の甲でぬぐった。

本当の戦いは、そのあとに始まった。


便座の横を確認した。

操作盤がない。

「おいおい、今どき
 ウォシュレットじゃないのかよ」

紙へ手を伸ばす。

指先に触れたものが、軽く回転した。

空のトイレットペーパーの芯だった。


紙がない。


予備もない。


なぜ、紙がないのか?


ここは婦人服の3階だ。

売上に貢献しない男子トイレより、
新作のブラウスが優先される。

妙に納得した。


かばんにティッシュもない。

商談用のプレゼン資料はある。

しばらく資料を見つめた。


それだけは、だめだ……。


「……そうだ!」

スマホを取り出した。

画面には、
残り1%と表示されていた。

次の瞬間、電源が落ちた。

会社にはいつも捕まるのに、
今日は誰も捕まえられない。


「あのー……誰かいませんか?」


返事はなかった。

自分でも驚くほど、小さい声だった。

商談なら、もっと声が出る。

ひとまず、水を流した。


こうなったら、自分で脱出するしかない。


その前に、1つ確かめることがある。

ここは本当に男子トイレか?

急いでいて、入口の表示を見ていない。

間違えていれば、確実な死だ。

社会的な。


鍵を外した。

扉の隙間から、外をのぞいた。

男性用の小便器が並んでいた。

「よし!」

今月いちばん確かな成果だった。

扉を閉め、鍵をかけ直した。


選択肢は2つ。

他の個室か、
洗面所のペーパータオル。

もう1度、鍵を外した。

扉の隙間から、洗面所をのぞいた。

青い光を放つ
エアドライヤーだけだった。


「……乾かして終わる問題じゃない」


選択肢は残り1つ。

真ん中の個室へ移る。


ズボンは、
膝までしか上げられない。

大きな歩幅では進めない。

そんな姿を誰かに
見られるわけにはいかない。

普段なら、隣へ移るだけだ。

いまは、月より遠い。


俺は耳を澄ませた。

館内放送と、遠くの靴音。

かばんを肩にかけた。

ドアを押し、
できた隙間から人影を探した。


無人。


ついに、俺は個室の外へ右足を滑らせた。

人類にとっては、
どうでもいい一歩だ。

だが俺にとっては、
偉大な一歩だった。


昔、剣道をやっていた。

上半身を動かさず、すり足で進む。

あの頃は、
一本を取りにいった。

今日は、一枚を取りにいく。


靴底を床から離さず、真ん中の個室へ進む。

入口の向こうで、誰かが咳をした。


俺の足が止まった。

息を止めた。


誰かには来てほしかった。

でも、今ではない。

戻れば独房。

進めば現行犯だ。

初犯なら、執行猶予はつくだろうか。


咳は遠ざかった。

止めていた息を吐いた。

俺は再び足を滑らせた。

個室のドアへ手を伸ばし、
中へ滑り込んだ。

すぐに鍵をかけた。

「よし!」

ホルダーへ手を伸ばした。


空の芯だった。


予備もない。


俺は目を閉じた。


失敗ではない。

紙のない個室を、
もう1つ発見したのだ。


そのとき、
入口から足音が聞こえた。

革靴の硬い音が、
一定の速さで近づいてくる。

鼻歌まで聞こえた。


救援要員。

ご来店、ありがとうございます。


足音は入口近くの個室で止まった。

ドアが閉まり、鍵のかかる音がした。

ベルトの金具が鳴った。


鼻歌が止まった。


仕切りの向こうに、救援要員がいる。

声をかければいい。

商談なら、とっくに本題へ入っている。

仕切り1枚が、俺たちの国境だった。

補給には通信が必要だ。

仕切りを指で2度たたいた。

コンコン。

モールス信号だ。

「入っていますよー」

「あのー、すみません。
 紙がなくて……分けてもらえません?」

「えっ、隣から!?
 それは大変だ。待ってくださいね」

仕切りの向こうで、
ホルダーの蓋が開く音がした。

芯が回る乾いた音がした。

沈黙のあと、男が言った。

「……ここも紙がありません」


しばらく、
どちらも何も言わなかった。


「……あの……お隣さん?」

「はい」

「一緒に、
 助けを呼びませんか?」

短い沈黙があった。


「……本当に、
 一緒に呼んでくれます?」

男の声も、
さっきの俺の声と同じくらい小さかった。

「もちろんです」

「……じゃあ、せーので、
 いきましょう」

仕切りの向こうから、息を吸う音がした。

俺も息を吸った。

「せーの!」



どちらも声を出さなかった。


「え……?」

「……もう1回!」

「はい!」

「せーの!」

「誰かー!」

「紙を1枚くださーい!」

2人分の声が、洗面所を抜けた。



返事はなかった。



すると、売り場の向こうから、
こちらへ駆けてくる足音がした。

「救援だ……」

男の声が弾んだ。

「やった!助かりますよ!」

お隣さんと名刺交換もしていない。

それでも、
俺たちは同じ案件を抱える仲間だった。


誰かがトイレへ飛び込んできた。

俺たちの個室を素通りし、
一番奥の扉が閉まった。


やがて、
奥の個室から、仕切りをたたく音がした。

コンコン。

「あのー、すみません。
 紙がなくて……分けてもらえません?」


俺は、かばんを開けた。

商談用のプレゼン資料を1枚取り出した。




読んでくださって、本当にありがとうございます。

※本作はフィクションです。


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どれも大切に読ませていただきました🥹


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