問いから始める景色──イヤホンの向こうに見えたもの
月曜日の朝、久しぶりに出社したオフィスには、ざわざわとした空気が流れていた。
「おはようございます」
「あ、週末の資料、今日までに送ります」
挨拶の声、打ち合わせの声、電話越しの声。
壁に仕切られていないワンフロアの職場では、誰かの声が常にどこかで聞こえている。
——さて、今日も一日が始まる。
僕は自分のデスクに座り、バッグからイヤホンを取り出した。
スマホでYouTube Premiumを立ち上げて、いつもの作業用BGMを再生する。
広告なしで好きな音楽を選べるのがありがたい。最近よく聴くのは、中高生の頃に聴いていた音楽。
視覚情報を閉じて、音だけを流せば、心地よい集中空間が生まれる。
オフィスでイヤホンをして仕事をすることについては、賛否があると聞く。
「チームワークに支障が出る」とか、「話しかけにくい」とか。
でも僕は、誰にも迷惑をかけていない範囲で、自分の集中力を高める術を選んでいるだけだ。
会話が必要な場ではイヤホンを外すし、声をかけられれば応じる。
なにより、音楽を聴いていることで、他人の“無意識の音”から自分を守れる。
この日の午前中、たまたまイヤホンを外していたときだった。
すぐ後ろの会議スペースで、グループ会社の管理部の人たちが打ち合わせをしていた。
その中で、ひときわ印象に残ったフレーズが聞こえてきた。
「……源泉徴収って、“税金を先に引いておく仕組み”って言われるけど、じゃあ年末調整ってなに?って話になるんですよ」
なんの気なしに聞いていた耳が、ぴくりと反応した。
——あぁ、たしかにそうだよな。
僕も人事として給与計算や年末調整の流れには慣れているけど、改めて聞かれると、意外と説明が難しい。
源泉徴収とは?
年末調整とは?
そして、確定申告とは何が違うのか?
「会社が毎月引いてるのが源泉徴収で、そのままだと概算だから、年末に正しい額に調整するのが年末調整。でも、会社に任せず自分でやるのが確定申告。だから、副業があったり、控除が多かったりする人は自分で申告する必要があるんですよね」
なるほど、と心の中でうなずいた。
その話し手の声からは、ただの“知識の説明”を超えて、「本質を理解しよう」という姿勢が感じられた。
目の前の業務に追われると、どうしても“処理”になりがちだ。
与えられたフォームに入力し、決められた締め切りを守り、誤りなく進める。
でもその背景にある“なぜ”を考えるだけで、風景はまったく違って見える。
僕はふと、イヤホンを片方だけ耳に戻しながら、頭の中でひとつの問いを立てた。
——いま、自分がやっている仕事に、どれだけ“なぜ”を持っているだろうか?
人事の仕事も、給与の計算も、書類のチェックも、制度設計も。
そのひとつひとつが、誰かの生活に直結していて、ただの“ルーティン”ではない。
でも、慣れてしまうと問いを失ってしまう。
それが仕事だ、とどこかで割り切ってしまう。
その日の午後、僕は普段より少しだけ丁寧に仕事に向き合ってみた。
たとえば、ある社員の社会保険の等級変更を処理するとき。
いままでは「提出期限に間に合うように」「間違いなく出すこと」に意識が向いていた。
でも、その日はひと呼吸置いて、「なぜこのタイミングで変更が発生するのか」「本人にどんな影響があるのか」を自分の言葉で説明できるように、理解し直してみた。
書類ひとつ、数値ひとつ。
そのすべてに、“人の生活”が詰まっている。
家族がいて、子どもがいて、ローンがあって、夢があって——
そんな背景を抱えた一人ひとりの“人生”を、ほんの一部分でも支えているという感覚。
問いを立てることで、景色が変わる。
見えていなかったものが、見えるようになる。
仕事を終えて、電車に揺られながら、その日のことを振り返った。
——あのとき、イヤホンをしてなかったから、気づけたんだよな。
静かに集中することも大事。
でも、たまには耳を澄ませてみるのも悪くない。
何気ない誰かの一言が、自分にとっての大きな気づきになることがある。
それはまるで、街の喧騒の中から、自分だけに届いた小さなメッセージのようだった。
明日もまた、仕事をする。
きっと、変わらない日常が待っている。
でもその中に、少しでも多くの「なぜ?」を見つけていこう。
それが、僕にとっての「働く」ということの意味なのかもしれない。
家に帰ると、ちょうど朝陽(あさひ)が夕飯を食べ終わったところだった。
リビングには食後の空気が漂っていて、陽潤(はるん)はまだ小さな手でおにぎりの欠片をつまんでいる。
「パパ、おかえり〜」と朝陽が振り返る。
僕は「ただいま」と返しながら、着替えを持って脱衣所へ向かう。
今日もいつもの通り、一緒にお風呂に入る。
湯船に浸かると、朝陽がぽつりと話し出す。
「ねえパパ、今日ね、給食のヨーグルトがいつもと味ちがったの」
「へえ、どう違ったの?」
「なんかね、いつものより“しゃばしゃば”してた!」
その言い方がなんだか可笑しくて、ふたりで笑い合う。
「そういえばさ、朝陽。今日ね、パパもおもしろいことがあったんだよ」
「なに?」
「“源泉徴収ってなに?”って話をしてる人がいてね。パパも知ってるつもりだったけど、改めて考えたら、意外とちゃんと説明できなかったんだよね」
朝陽はお湯をちゃぷちゃぷさせながら、きょとんとした顔をする。
でも、僕はその顔を見ながら、続けた。
「大人になってもね、“なんで?”って思うことはすごく大事なんだよ。知ってるつもりで終わらせないで、ちゃんと考える。そうすると、今まで見えなかったことが、見えるようになるんだ」
「ふーん。じゃあ、あさひも“なんで?”って聞いていい?」
「もちろん。どんどん聞いて。パパも一緒に考えるから」
「じゃあ……なんでお風呂って、あったかいの?」
「……それはね、パパも考えておくよ」
ふたりでまた笑って、僕はそっと朝陽の頭にお湯をかけた。
大人になっても、親になっても、問いを立て続けることは終わらない。
そして子どもたちにも、そういう目線で世界を見てほしいと思う。
“なんで?”と思える感性は、きっと一生の武器になるから。
今日の気づきは、仕事の中にあった。
でも、それはそのまま、親としての在り方にもつながっている。
子どもと過ごすこの時間も、僕にとっては「問い」の連続で、かけがえのない学びの場だ。
イヤホンの向こうから始まった小さな気づきが、今日の僕を、少しだけ成長させてくれた気がした。
そして、明日もまた問いから始まる景色の中へと、僕は進んでいく。
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湯鶴の裏方より
このnoteでは、湯鶴というひとりのパパの日常をもとに、仕事・育児・人生にまつわる物語を綴っています。
無料物語では、子どもとの時間で考えたことや、仕事をする中で考えていることなど、毎日のなかにあるささやかな気づきを描いています。
でも実は——
誰にも言えなかったことや、少し勇気がいるようなことは、有料物語で綴っています。
湯鶴がこれまで向き合ってきた葛藤や選択。
その背景には、言葉にならなかった想いがあります。
僕は、湯鶴の“裏方”として、そのひとつひとつを記録してきました。
有料物語は1本100円。
ですが、マガジン(500円)を購読していただければ、これまでに公開された有料記事も、これから追加される物語もすべてお読みいただけます。
子どもを育てること。
働き続けること。
自分のままで在り続けること。
どれかひとつを選ぶのではなく、どれも大切にしていきたい。うまくできない日があっても、それでも今日を重ねていく。そんな湯鶴のまなざしと向き合いながら、言葉を編んでいます。
もしも、どこかで心に触れる瞬間があったなら、マガジンをのぞいていただけたら嬉しいです。
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スキを押してくださった方へ、湯鶴の言葉をひとつ、おみくじと共にお送りします。
たまたま出会ったようで、どこかで必要としていたかもしれないひとことを、そっと手渡せたらと思っています。
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