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【東京の神社】浅草七福神巡り❸武運の神様がいつの間にか招き猫を抱えていた?~今戸神社


今戸神社(福禄寿)

待乳山聖天より徒歩6分で今戸神社(福禄寿)到着。

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1063年(康平6年)に源頼義・義家親子が奥州討伐の折、京都の石清水八幡宮を当地に勧進し、祈願したのが始まりである。

1937年(昭和12年)には隣接していた白山神社を合祀し、それまで今戸八幡と呼ばれていた当社が今戸神社と呼ばれるようになった。
また現在では浅草名所七福神のひとつ福禄寿も祀っている。

今戸神社 - Wikipedia

飛鳥時代創建の浅草神社待乳山聖天よりは400年ほど新しい。
とはいえそれでも歴史は古くて、平安時代の1063年に創建。

現在の姿から想像できなかったが、もともとは八幡宮(武神)だった。
それが、最近の昭和になってから白山神社を合祀して、縁結びと招き猫であふれる神社となった。

つまり今はこの神社の顔ともいえる縁結びの神:伊弉諾尊・伊弉冉尊も、七福神の福禄寿も、どちらも別の神社である白山神社の祭神だった。

なのでその「白山神社」の資料を探したが見つからず、いつ創始されたのか、誰が創始したのか、なぜ今戸神社と合祀されたのかなど一切不明。

1000年近く武運を司る武神としてやってきたのに、昭和になって縁結びの神社になったことに、正直戸惑いを感じてしまった。
いったい何があったの??

招き猫発祥の地?

この神社は「招き猫発祥の地」とされている。
なのでこちらも調べてみた。

江戸時代の地誌『武江年表』または日記『藤岡屋日記』の嘉永5年(1852年)の記述によれば、浅草花川戸に住んでいた老婆が貧しさゆえに愛猫を手放したが、夢枕にその猫が現れ、「自分の姿を人形にしたら福徳を授かる」と言ったので、その猫の姿の人形を今戸焼の焼き物にして浅草寺境内三社権現(現浅草神社)鳥居横で売ったところ、たちまち評判になったという。

今戸神社 - Wikipedia

うむ。
これを読むと、「発祥の地」はちょっと違う神社では?と感じる(苦笑)

同史料は浅草寺や浅草神社に由来するものとしての記録であり、今戸神社(旧:今戸八幡)との結びつきを示すものではない
平成の招き猫ブームと縁結びパワースポットのブームに乗り、当社は招き猫発祥の地として看板を掲げ、多くの招き猫が奉られるようになったが、本殿や境内に安置されている招き猫の形状は江戸明治期の今戸焼の招き猫とは何ら関係のないものであり、考証的には伝統的なものとは全く関わりのない、平成の産物として見る必要がある。

今戸神社 - Wikipedia

ちょ、Wikipediaさん??(汗)
いいすぎでは…(苦笑)

ちなみに日本最古の招き猫と認定されているのは丸〆猫と呼ばれる浅草寺に由来する物↓

武神よりご利益を取ったということ??

「武神の八幡様」から「縁結び」と「招き猫」が境内中にあふれる、さながら神社界隈の原宿(?)へ変貌したわけで。
180度転換した姿に最初は、本来の神様を捨てて利益に走ったのか?と感じた。
でもね、神社だよ?(笑)
だからじっと考えてみた。

招くよぉ~
にゃん!
にゃんにゃんにゃーーーん
おみくじも猫まみれ

あっちこっちに猫、猫、猫。
たまにカエル。
何度も言うけど、八幡宮だったんだよね??

神社ができた頃の人たちに思いを馳せる

こうなる背景はよそ者の私にはわからない。
だから思いを馳せてみた。

今戸神社ができた平安時代のこの辺りはまだ湿地帯だったと記録にある。

とはいえ、すぐ近辺に飛鳥時代に創建された観音様のお寺が二つもあったのだから、仏教の教えや信仰が浸透していたであろうと考えられる。

そこに武神がやってきて戸惑ったかもしれないけれど、守護してくれる武士が持ち込んだものだから受け入れていったのだと思う。

平安時代といえば荘園を守るために武士が生まれてきた頃だった。

都(平安京)から遠く離れたこの地に「今戸神社」を創建したのは源氏。
ではなぜ源氏の彼らが「ここ」を選んだのか。

AIに聞いてみたところ、

前九年の役(1051–1062)
前九年の役後三年の役は、平安時代中期に東北地方で起こった源氏と安倍氏との戦い)

頼義・義家は
奥州での戦乱(前九年の役)を鎮圧するため、東国に派遣されました。
この戦いで
東国武士と強い主従関係を築く
関東に「源氏ブランド」を確立する
そして戦後、関東各地に八幡社を勧請。

なるほど。そういことか。AIはまとめるのがうまいね。

前九年の役は1051から1062年、神社創建は1063年。
つまり、今戸神社がこの地に生まれたのは、源氏の大きな戦いの直後だった。

この地は湿地帯で確かに「暮らし」には向いていなかったけれど、海から入り、常陸國などの内陸に移動するのには重要な入口の一つだった。

インディアンたちが集落の入口に、先祖の守り神としてトーテムポールを立てるように、入口に強い神様を置くのは理解できる。

庶民が選んだのはどちらなのか

月日は流れ、やがて荒地だったこの場所が、江戸時代になると日ノ本の中心となり、文化が花開いていく。
そりゃあ江戸の住民にとっては、武運どころじゃないよね。

さらに江戸時代が終わりを告げ、国の仕組みも宗教の法律も変わって、しっちゃかめっちゃかになって。
それでも武神に手を合わせていたある日のこと、縁結びの神様がこの場所にやってきた。

ああ、なるほど。
私がここの住民なら、武神より縁結びの神様に手を合わせたいと思っちゃう。
「福禄寿」という、身も心もお金(禄)までも全部をしあわせにしてくれる存在にこそ、手を合わせたい。

もともと観音信仰が浸透していた場所だし。
何より葦だらけの湿地帯の頃から、戦っていたのは「敵」じゃなくて、自然であり暮らしていくことそのものだっただろうから。
そりゃあ戦いより日々の糧、武神より福禄寿だよ。
(勝手な決めつけ苦笑)

招き猫のことだって、この神社の地名が付いているのだから、きっと近くでせっせと作っていたのだと思う。
それを、ここより人がたくさん集まる浅草神社で売ってはいたよ?

でもね、氏神様はこっち(今戸神社)なのよ。
招き猫を作っていたのはこの近所の住民なのよ。
だから、ここが、発祥の地なのよ!
(ちなみにこれらは勝手な私の妄想です笑)

うん、なるほど。
実際にそこで暮らしていた気持ちになって想像してみたら、今のような状況になるのもよくわかる(笑)

施政者が変わるたび、俺たちが振り回されるのはまっぴらごめんだ。
俺たちの生きる場所にどんな神様を置くのかは、俺たちで決めてやっただけだ。
それの何が悪い?

そんな声を聞いた気がした。

そのしたたかさが羨ましくもあり、やっぱり江戸っ子っていいなと謎に思った(笑)


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