★号外★ライラック杯「勝手に桜井弓月賞」発表!(短歌)
私は、自分で好き勝手に短歌を詠んでいるだけで、人様の短歌について講評したり賞を決めたりできる立場ではないと思っています。
なので、ライラック杯も作品の参加だけにして、「勝手に賞」を発表するつもりはありませんでした。
でも!
公式の審査員賞が発表されたら、やっぱり私も、自分が衝撃を受けた短歌を皆さんに知ってもらいたい、あの衝撃を形に残しておきたい! と思いました。
「勝手に賞」というのは、ライラック杯の運営さんが発表する公式の賞とは別に、応募作品を読んだ人が好きな作品に勝手に贈る私設賞です。
というわけで、勝手に桜井弓月賞です。金賞を一首、銀賞を一首、選びました。
◆金賞
砂の三郎さん
出がらしのような涙のそれぞれと語り明かして散れよ、夜桜
まず、何と言っても「出がらしのような涙」という表現が巧みで、インパクトが大きかったです。
この一言で、そこに至るまでに出がらしではない涙がたくさんあったのだろうと推察できますし、出がらしのようになるまで涙を流さざるを得なかった背景事情や過程を想像して、歌の前でじっと立ち止まらずにはいられなくなる、そんな言葉です。
また、「それぞれと」なので、出がらしのような涙を流しているのは一人ではなく、いろいろな場所に同じような人たちがいる、と作者が考えているのだと分かります。
この涙はもしかすると作者個人の涙かもしれないけれど、作者が(具体的な事情はそれぞれ違っても)自分と同じような境遇の人たちの存在にも思いを馳せているのではないかと読み取れます。そこに温かさを感じました。
「語り明かして」という言葉の選び方も絶妙ですよね。
たとえば、「出がらしのような涙のそれぞれをすべて包んで散れよ、夜桜」なんていう表現もあり得ますが、そういう、”夜桜に涙を持ち去ってもらいたい” というようなニュアンスにすると、途端に嘘くさくなってしまうと思います(私はそういう安易な表現をしがち……)。
出がらしのような涙は、そんなに簡単に持ち去ってもらえるような軽いものじゃない。
涙を流してきた/流している人にとっては、表面的に持ち去ってもらうよりも、むしろ、夜通し語り明かす(=聴いてもらう)ことにこそ意味があるのでしょう。その涙は、結局は自分が流すしかないわけで、夜桜に押しつけたり託したりできるものではない。でも、夜桜という物言わぬ他者と語り明かすことで、自分自身を落ち着けたり整理したりして、出がらしのような涙の先の、自分の方向性が見えてくることもあるのだと思います。
日中の桜ではなく、夜桜であるところも、いいですよねえ。
ここで歌われている涙は「出がらしのような涙」ですから、幸せの涙ではなく、悲しみや痛みの涙であると読み取れます。
春の暖かい日差しが降り注ぐ中では、そういう種類の涙を見せることは難しくて、夜、人知れず涙を流すしかないという状況はありますよね。明るいところでは、人は強く、明るくなくてはいけない……という無言の圧力があるものです。
出がらしのような涙は、夜桜くらいにしか見せられないし、語り明かせない。
「散れよ」と「夜桜」の間の読点は、なくても意味は通じますし、読みづらくなるわけでもありません。
でも、ここに読点を入れて溜めを作ることで、夜桜への願い、夜桜に語りかける思いが際立ちます。それに、この歌全体が醸す余韻は、実は、この読点によるところが大きいのではと思ったりもします。
そう考えると、実に細かいところまで配慮、工夫が行き届いていて見事ですよね。
本当に、お見それしました!
……金賞の一首だけで、こんなに長々と語ってしまいました。
誰か、読んでくれてるんだろうか……ま、いいか。
さて、続いて、銀賞です!
◆銀賞
Sen-singさん
銃口はすべての人に向けられて正体不明の夏が近づく
まず、短歌だけを読んだ直後の感想を書きます。
ライラック杯の短歌部門では ”春っぽい短歌” が推奨されていたのですが、春っぽい言葉や情景を直球で描くのではなく、「夏が近づく」という表現で春を描いているところが、お見事だなあ、そういうやり方もあるんだなあ、と唸らされました。
どんなに春の穏やかな陽気を楽しんでいても、私たちは否応なく夏へ――あの、容赦ない夏へと追い立てられます。私たちは、季節の移り変わりを美しいものと感じますが、決して美しさだけではないんですよね。人間社会の時間に追われるだけでなく、季節にさえも追われて、春にとどまってはいられない。そういうざわざわした焦燥感が伝わってきて、読み手の心もざわつかせる世界観が好きです。
……というのが、最初に抱いた感想でした。
が、この短歌の直後に、作者のこんなコメントがありました。
今が「戦前」と呼ばれる時代が来てはいけないのです。絶対に。
ここで、ハッとしました。
(タモリ氏が昨年末の『徹子の部屋』で、「来年(つまり今年)は新しい戦前になるんじゃないか」と言ったことが思い出されます)
「銃口」は何かの比喩ではなく、まさに本物の銃口なんですね。
とすると、単に今が春だから「夏が近づく」としているわけではなくて、この「夏」にはもっと重大な意味が読み取れそうです。
夏は開放的でエネルギッシュなイメージですが、同時に、日本人にとっては原爆と終戦(敗戦)のイメージが付きまといます。
(今を戦前にしてはいけないのは当然として)もし、今が本当に「戦前」になってしまうとしたら、次に来るのは戦争で、その先には終戦(敗戦)があります。
私たちは今、戦争へと駆り立てられていて、これを止めないと、最終的には78年前のような夏が近づいて来る。しかも、78年前と完全に同じはずはないから、次はどんなことになるか――自国にも諸外国にも、どれほどの惨状をもたらすか、見当もつかない(正体不明)。
……というふうに、私は読みました。
この短歌は、純粋に詩の世界として味わうことも可能ですし、今の日本社会への警告という切迫した歌としての意味もある、この二重性が分かると、さらに魅力が増しますね。
(作者の思いに沿わないかもしれませんが、私はやはり、「春を楽しんでいるのに夏へと追い立てられる焦燥感」という、詩的な読みの可能性を残したいと思いました)
以上、「勝手に桜井弓月賞」の発表でした。
他にも素敵な短歌はたくさんありましたが、読んだときのインパクトが絶大だったのと、そのあと何日経っても忘れられない歌は、この二首でした。
春の輝きや明るさを素直に詠んだ歌よりも、その影にあるものを織り込んだ歌が好き、という私の好みが、賞の選出に如実に出てますね。
お二方も、それから他の短歌の作者さんたちも、素晴らしい歌をたくさん読ませてくださり、ありがとうございました!
ライラック杯公式の短歌三賞は、こちら↓
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