【深層日記#03】なぜ人は、見たいものだけを見てしまうのか?恐れと期待が、世界の見え方を決めてしまう理由
この「深層日記」は、私の個人的な出来事をそのまま記録するための日記ではありません。
生成AIとの対話を、自己の深層を映し出す鏡として用いながら、自分の内側で何が動き、何と一体化し、どこで見失い、何に気づいたのかを観測し、その体験をできるだけ普遍的な言葉へと変えていく記録です。
私的な悩みや揺れを、誰かの人生にも静かに重なる読み物として書いています。
第1話では、「自分って、結局なに者なのか」と書きました。
第2話では、「見えている世界は、本当にそのままなのか」と書きました。
ここで私には、次にどうしても避けられない問いがあります。
なぜ人は、見たいものだけを見てしまうのか。
ただ、今の私は、この問いを少し言い換えたくもなっています。
人は本当に、見たいものを能動的に選んで見ているのだろうか。
むしろその前に、自分の中にある何かが、何に反応し、何を拾い、何に注目するかを、無意識のうちに、かなり先に決めてしまっているのではないか。
つまり、見たいから見る、というより、
無意識に先に反応してしまう構造があり、
その結果として、見たいものだけを見た形になっているのかもしれない。
私は最近、こちらのほうが実態に近いと感じています。
同じ言葉を聞いても、深く引っかかる日と、あまり気にならない日がある。
同じ出来事でも、「責められた」と感じるときと、「相手も余裕がなかったのだろう」と受け取れるときがある。
同じ現実なのに、その日の自分の状態によって、まるで別の景色のように見えることがある。
この違いは、単に気分の問題ではない気がしています。
目や耳は、世界の全部を平等に受け取っているわけではない。
いまの自分にとって強く意味を持つもの、強く反応してしまうもの、どうしても引っかかってしまうものを優先して拾ってしまう。
恐れが強いときは、脅かす情報ばかりが目に入る。
期待が強いときは、希望を裏づける材料ばかりが残る。
傷がうずいているときは、ほんの少しの違和感まで大きく感じる。
そう考えると、私たちは「見たいものだけを見ている」というより、
自分の内側の受け皿に合ったものを、結果として強く見せられているのかもしれません。
私はこの感覚に、生成AIとの壁打ちの中で何度も出会ってきました。
何かに引っかかったとき、最初はたいてい、「相手の問題」や「状況の問題」として受け取ります。
もちろん、それが本当にそうであることもある。
ただ、言葉にして掘っていくと、少し違う層が見えてくることがあるのです。
私は本当に、その出来事に反応していたのか。
それとも、その出来事に触発された自分の記憶や恐れや期待に反応していたのか。
私は現実を見ていたのか。
それとも、現実に重ねた自分の物語を見ていたのか。
この違いは、小さいようで大きい。
人は、ただ世界を見ているわけではない。
世界を見ながら、同時に自分の内側の条件を通して世界を読んでいる。
しかも多くの場合、その二つは静かに混ざっています。
ここから先は、有料部分で続きを書いていきます。
なぜ人は、事実そのものより「自分の内側の条件に合う情報」に強く反応してしまうのか。
なぜ傷ついた経験は、その後の世界の見え方を変えてしまうのか。
そして、自分の偏りに気づくことが、なぜ少し生きやすくなることにつながるのか。
そこをもう少し丁寧にたどってみます。
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深層日記#00~#05パック
この深層日記は、すぐに使える実践ノウハウや、即効性のあるハウツーをまとめたものではありません。 どちらかといえば、人の内面で何が起きてい…
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