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【短編小説】「奇跡」は誰かが作っている

サンドバッグの縫い目を修復しながら、中村は窓の外に目をやった。
隣のラーメン屋の看板が、ジムの文字を隠すように傾いている。とっくに閉店したまま、取り外されないままだ。
気にするほどのことでもない。長年の習慣で、手は止まらず針を進めた。

「お疲れさまでした」

ロッカーから、生徒たちが次々に出てくる。
生徒は少ないながらも、月の家賃は払える。薄暗い廊下に足音が遠ざかり、中村は黙って鍵を閉めた。

五月、ビルの入口に「外壁補修工事のお知らせ」が貼られていた。「五月十五日より足場設置」。翌朝、重い金属音とともに、窓から差し込む光が弱まる。足場の影にジムの看板は隠れ、歩道には工事用フェンスが立った。

「しばらくは目立たなくなるな」

そう思っても、特に対策は打たなかった。長年通う生徒たちは、小さな不便など気にしないだろう。

七月、工事は終わったが、ラーメン屋の看板はそのままだった。
その上、業者が古いオーニングを開いたまま帰ってしまった。十年来閉じたままだったそれは、今や玄関先に濃い日陰を作っている。 

「これじゃあ、中の様子がよく分からんな」

中村は眉をひそめ、閉じようとしたが、工事の影響か、機構が固まっていた。結局、そのままにしておくしかなかった。

八月、駅前の再開発で、人の流れは変わった。
裏通りだった場所が、明るい照明と人の往来で変わっていく。ジムのある通りは、めっきり人が少なくなった。

九月から十月にかけて、生徒たちは転勤や引越しを理由に次々と辞めていった。
最後のひとりも「膝が悪くて」と足が遠のいた。

地域情報誌が廃刊となり、小さな広告枠も消えた。地図アプリでは、ジムの名前が表示されなくなった。問い合わせても、「手続きが必要」と言われるだけだ。

十一月、蛍光灯が切れた。中村はため息をついた。新しく購入した蛍光灯を設置すると、暖かな電球色が空間を満たした。

「こんな派手な光でボクシングができるか」

しかし、次の蛍光灯を買う余裕はなかった。

冷たい雨が音もなく降り続ける。相変わらず、予約表には一つも名前がない。エアコンから漏れる水滴が、赤いバケツに規則正しく落ちていく。

「閉めるか」

中村は処分のため、古いパソコンの電源を入れた。そこに、ひとつのファイルが残っていた。

「ボクシングジム・会員募集」

白いA4用紙に、簡素な文字が並ぶ。印刷すると、インクが薄れ、日付と電話番号がかすれていた。
それでも、次の日、駅前に立つ。

人々は足早に通り過ぎる。数枚のビラが受け取られても、ポケットに押し込まれるだけだ。
突風が吹き、手元からビラが舞い上がる。追いかける気力もない。一時間後、残りのビラを抱え、ジムへと歩き始めた。


法学部の学生、西野誠は図書館で契約法のレポートを睨みつけていた。教授のコメントは厳しく、頭を抱える。

帰り道、駅前の工事で迂回を余儀なくされた。冷たい風が頬を打ち、足元に紙切れが絡みついた。
何となく拾い上げたが、カバンに入れた紙切れのことは、すぐに忘れた。

夜、レポートに行き詰まり机を片付けていると、ビラが滑り落ちた。「ボクシング」という言葉が、なぜか新鮮に映る。判例と条文ばかりの頭の中に、ふいに空白が生まれる。

翌日、講義が休講となった。「行ってみるか」と、住所を頼りにジムを探した。
玄関をノックしても応答はない。踵を返した時、中村と鉢合った。

「ボクシングジムは?」
「私だ」

中村はそれだけを言い、無言で玄関を開けた。ジムに入ると、彼は黙って電気をつけ、グローブを棚から取り出した。

「火曜と木曜、夕方。月謝は八千円」

この男と自分を結びつけたのは、ただの偶然だった。


木曜日の夕立で、オーニングの下に白髪の男性が雨宿りしているのを西野は見つけた。

「よかったら、中へどうぞ」

西野の言葉に、男性は礼を言ってジムに入った。中村がうなずくと、男性は壁の写真に目を留めた。かつての試合の様子だ。

「もしかして、あの中村さんですか?元東洋チャンピオンの。」

男性は医学部の教授で、学生時代にボクシングに興味があったという。西野のトレーニングを見ながら、彼は筋肉の動きについて熱心にメモをとった。

「うちの学生たちの研究に協力してもらえないだろうか」

帰り際、彼はそう持ちかけた。中村は黙ってうなずいた。


ある日、若い女性がヨガマットを抱えてジムを訪れた。

「ここって、フィットネスですよね?」

看板が見えづらくなっていたのだ。暖色の照明がフィットネスジムのように見えたのだろう。

中村が首を振ると、女性は慌てた様子で謝った。「駅前のジムは人が多くて…。静かなところを探してて」

帰り際、彼女はふと立ち止まり、ジム内を見回した。

「弟が引きこもりがちなんです」

その言葉に、中村はただ黙ってうなずいた。

一週間後、彼女は無口な高校生を連れて現れた。

「タケルです。よろしくお願いします」

中村は黙ってグローブを手渡した。西野は隅でシャドーに集中している。

ミットを叩く音だけが、薄暗い空間に響く。言葉を交わさないまま、二人の動きが同じリズムを刻み始める。

その時、中村の目が僅かに見開いた。


春、インターンシップで忙しくなる西野は「しばらく来られません」と告げた。

「そうか」

中村はいつもと変わらぬ口調で答えた。

夏の終わり、久しぶりにジムに立ち寄ると、予約表には見知らぬ名前がいくつか並んでいた。
タケルは地方大会で準優勝し、医学部の学生たちが研究会で紹介したらしい。隅では大学生らしき青年がシャドーを始めたところだ。

西野は黙って手を包帯で巻き、サンドバッグに向かった。かつてない集中力で打ち込むうちに、心の中が静かになっていく。

足元に絡みついたビラという偶然は、いつしか彼の中で「自分の選択」に変わっていた。そこに、彼は自分自身の声を聴いていた。

帰り際、中村は名前で埋まった予約表を静かに見つめていた。誰も「奇跡」とは口にしなかった。
誰かの大きな意志のように、確かな変化が続いていた。

そこに、きっと明日も誰かが来る。


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