【短編小説】地獄とは他者のことらしい
私はこれから、人生最悪のスピーチをする。
影山純一、それが私の名前である。覚えてもらわなくても構わない。こんな男の名前を覚えたとて、あなたの人生は変わらない。
私は結婚式場の控室で震えていた。
スピーチの原稿は、手汗で文字が滲んでいる。あと十分で、私は百五十人の視線の待つ処刑場に向かう。
『地獄とは他者のことである』
昔読んだ本にそう書いてあった。私にとって他者とは、視線という炎で私を焼き尽くす悪魔たちだ。大げさに聞こえるかもしれないが、私にとってはそうなのだ。
私は数字の男だった。
西園寺共生基金で十年間、支援事業の予算管理を完璧にこなしてきた。数字は裏切らない。数字は私を見つめない。エクセルの緑の格子とAIだけが、私の真の友人だった。
しかし今日、私を待っているのは計算のできない世界だった。
「影山さん、大丈夫ですか?」
清水直樹氏が顔を覗かせた。支援プログラム責任者は、いつもの柔らかな微笑みを浮かべている。
「正直なところ、参りました」私は答える。のどが渇いて、唾を飲み込もうとしたが、唾も出ない。
清水氏は隣に座った。
「初めて小田切君を紹介した時のこと、覚えてる?『数字上は支援困難ケース』って君が言ったよね」
十年前。私の初めての担当者。高校中退、家庭崩壊、非行歴あり——これが小田切航の「数字」だった。今日、その彼が結婚する。
「私は予算を組んだだけです」
「支援する側も支援される側も、結局は誰かの視線の中で生きているんだよ」清水氏は静かに言った。
「完璧なスピーチなんてない。大切なのは相手に伝わることだけさ」
運命の時が来た。
三百の目が一斉に私に向けられた。ここが地獄の一丁目か。
原稿を広げる。声が上ずる。
「あ、えっと、小田切航さんと西園寺共生基金の関わりは、十年前に…」
その時、原稿が手から滑り落ちた。紙が床に散らばる静かな音が、私の人生を崩壊させるように響く。
ああ、これで終わりだ。唯一の衣すら失い、あとは裸で業火に焼かれるのみだ。
「えーっと…」言葉に詰まる。膝が震えて、原稿を拾うこともできない。「彼はその、支援が難しいと…いうか…」
ホールの空気が凍りついた。
私は開き直ることにした。どちらにせよ、灰になるまで焼かれるだけなのだ。
「すみません。原稿が…」小さく笑った。不格好な笑いだった。「でも、これが私なんです」
そう、これが私なのだ。計算以外は何もできない男。それが私という人間らしい。
水を一口飲んだ。原稿は今更拾えない。
「えーと、私は数字の人間です」私は震える声で言った。
「小田切さんとの出会いも最初は、その、数字でした」
小田切を見た。彼は微笑みかけていた。責めるような目ではなかった。少し気持ちが落ち着いた。
「小田切さんは、私に数字では測れないものを見せてくれました」私はマイクを握りしめた。
「彼の目に宿る決意、言葉に込められた誠実さ。そういうものは、えーと、私のエクセルでは計算できませんでした」
会場に小さな笑いが広がった。ありがたいことに、失笑ではないようだ。
「彼は教えてくれました。人は誰かに見られることで変わっていく、ということを」
小田切の目が潤んだように見えた。新婦がそっと彼の手を握った。
「そして田中さん。あなたは、きっと小田切さんの中に、私たちが見つけられなかった何かを見つけたのでしょう。そのことを、えー」
言葉に詰まった。凡庸だが、他の言葉が出ない。
「大切にしてください」
拍手が起こった。小田切は立ち上がり、私に向かって深く頭を下げた。
新郎新婦が「幸せの鐘」の前に立った。
「この鐘の音は、祝福する人、見守る人あってこそ意味があります」式場支配人の藪田が、厳かに言った。
鐘が鳴り響いた。
その音は私の胸を震わせた。他者の目の中にこそ、私は映る。視線という名の地獄の中でこそ、私は存在するのだと気づいた。
式場を後にする時、夕陽が窓から差し込んでいた。
私の影が床に長く伸びていた。視線の炎に焼かれても、灰にはならなかった。
むしろ何か、光を放ち始めたような気がした。
「地獄も悪くない」
私は、誰もいない廊下でつぶやいた。
「少なくとも、一人きりの天国よりは」
そう、私は学んだのである。完璧でない自分を受け入れることを。そして、他者の視線という地獄の中にも、小さな救いがあることを。
これが私の物語である。みじめで、不完全で、少しだけ救われた物語。
