【短編小説】存在のない、死に至らない病
十一月の藍色の闇が製図室の窓を滲ませていた。建築学部の学生、柏木杏子の指先が模型を整える。白い箱の中に宿る、まだ見ぬ未来。東京の夜は、冬の気配を運んでくる。
スマートフォンが震えた。
「今日も会えない?」
藪田健人。法学部の学生。杏子の恋人——少なくとも、そう呼べる関係だった。
「ごめん、中間講評会前で」
既読の印だけが残り、返信は来ない。杏子は模型に戻る。彼の言葉は待っていられない。
白いスチレンペーパーの世界を形にしなければ。
翌日の講評会。藤野准教授の沈黙は、評価以上に重くのしかかった。
「やりたいことはわかる。プランも悪くない。ディテールを詰めていけば、それなりにうまく行くでしょう。でも」
藤野は言葉を選ぶように間を置いた。
「建築への愛を感じない」
杏子の眉が寄る。「愛、ですか?」
「曖昧な講評ですまないね」藤野の声は静かだった。「それが何かは、君自身で考えなさい」
講評会後、藤野は喫煙所で煙を吐きながら、杏子の模型を思い返していた。彼女らしい完璧な模型なのに、どこか空虚だった。
初雪の予感がする土曜日。杏子は藪田の待つカフェに着いた。彼の前には冷めたコーヒーがあった。
「遅いよ」
時計ではなく、彼の目がそう告げていた。
「ごめん。模型が—」
「もう限界かもしれない」藪田は彼女の言葉を遮った。「僕たちはすれ違ってばかりだ」
「卒業設計が終わったら」杏子はすかさず言葉を返す。
「二年生の頃からずっとじゃないか。この課題が終わったら、次の講評までは、って」藪田の顔には、諦めの色が漂っている。
カフェの空気が凍り始める。杏子は言葉に詰まった。彼の言葉は正しい。建築に没頭するあまり、彼との時間をいつも後回しにしてきた。
「私にとって建築は—」
「さようなら、杏子」
藪田が残したのは、テーブルの上の千円札と、言葉の余韻だけだった。
翌週、模型を前にしても、杏子の手は止まったままだった。白い空間が、急に意味を失ったように感じられた。
「愛」彼女は囁いた。その言葉は製図室の空気に溶けていった。
深夜、ほとんどの学生が去った製図室で、ドアが開く音がした。藤野准教授が静かに入ってきた。
「まだいたのか」藤野は杏子の模型を見た。「進んでないね」
沈黙だけが応えた。
「喫煙所まで付き合わないか」
建物の外へ出ると、十一月の冷気が二人を包んだ。「来たことあるかい?遠い上に外だ。大学の規則には辟易する」
喫煙所は小さな仕切りだけの空間で、夜空が広がっていた。藤野はゆっくりとタバコに火をつけた。杏子は星を見上げながら、藪田との別れを話した。
「私も若い頃、同じように何かを失った」藤野は煙を吐きながら言った。「その時気づいたんだ」
月明かりが彼女の横顔を照らす。
「建築とは、ないものを見せることかもしれないと」
「ないもの…」
「空間とは何か?」煙が言葉とともに昇る。「それは壁がない場所だ。壁があるから空間が生まれる。同様に」
藤野の目が杏子を見た。
「失ったものがあるから、私たちがここにいる」
その夜から、杏子の卒業設計は変わり始めた。完璧と思っていた構造に、あえて間隙を作る。不在の場所を、意図的に配置する。
最終講評会の日。杏子の作品は「不在がつくる生きた空間」として発表された。建物には大小の空虚があり、人々はその周りで生きる。
「まあ、悪くなかったよ。何か掴んだかな」藤野の言葉は静かに響いた。
卒業式の後、杏子は大学院への進学を決めていた。
製図室で休憩していると、スマートフォンに藪田との写真が現れた。かつて彼がいた空間が、今は彼の不在によって定義されている。
彼女はスケッチブックを開いた。空白を恐れず、むしろそれを生かす建築。不在と存在の間にある何か。
杏子は、新たな線を引き始めた。
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