【短編小説】ある人切りの物語
今日、初めて人を切った。
焼け付くような夏の日のことだった。
切られた男の目が、まだ脳裏に焼き付いている。
相葉万助は毎朝六時に起床し、妻の淹れたコーヒーを飲む。新聞に目を通し、娘を起こし、天気予報を確認する。それが、いつもの習慣だった。
「効率性が基準を下回りました」
タブレットの画面を見せながら、相葉はそう言った。数字は冷静だった。七十四パーセント。会社の基準は七十五パーセント以上。
山田は静かに頷いた。
「そうですか」
それだけだった。二十年間この仕事を続けてきた男の、最後の言葉。
山田の目は、何を見ていたのか。
一ヶ月前、相葉はこの物流センターに管理職として着任した。
今日、彼はこの無機質な箱の中で、山田に解雇を告げた。
翌日、相葉は杉田を切った。三日後は田中。その次の週には鈴木と高橋。AIが算出したリストに従って、相葉は月に十人ずつ、機械的に解雇を告知していく。
「相葉部長、おかげで人件費が大幅に削減できました」
相葉は頷いた。数字は美しかった。コストカット率、業務効率化、利益改善率。すべてが右肩上がりのグラフを描いている。役員会議での評価も上々だった。
十二月の終わり、相葉は労働組合の薄いベージュの壁に囲まれた会議室にいた。向かい側には佐藤健太という弁護士が座っている。三十代半ばだろうか、穏やかな表情をしているが、目の奥に意志の強さを感じさせる男だった。
「相葉さん」佐藤は相葉の名前を丁寧に発音した。「この三か月で五十七名の方を解雇されていますね」
「はい。すべて適正な手続きに従って」相葉は用意していた答えを述べた。
「その効率性75%という基準ですが、法的根拠はありますか?」
「会社の方針です」
「なぜ75%なのですか。74.9%の山田さんは解雇されて、75.1%の別の方は残る。その0.2%の差に、人生を左右する合理的根拠があるのでしょうか?」
万助は答えに窮した。考えたことがなかった。
「山田さんは20年間、一度も労災事故を起こしていません。後輩の指導にも定評があった。それらの価値は、どの数字に反映されているのですか?」
「それは...数値化が困難で...」
「では、数値化できないものは価値がないのですか?」佐藤は続けた。「相葉さん、あなた自身の仕事の価値は、どうやって測定されているのですか?」
相葉の顔が強張った。
「あなたは今、数字で査定されていない。でも、明日、会社が『管理職の効率性』を測定し始めたら?あなたが解雇してきた、まさにその方法で、あなた自身が測られたら?」
その問いに、相葉は答えることができなかった。
会議室を出た後、相葉は長い間、駐車場に立っていた。夕日が物流センターの壁面を赤く染めている。建物の中では夜勤の準備が始まっている。彼が切った五十七人の席は、もうそこにはない。五十七の家族。五十七の物語。
その夜、相葉は眠れなかった。
山田の「そうですか」という声が、耳の奥で反響していた。山田の目が、まだ脳裏から離れない。そして佐藤の問い。「明日、会社が『管理職の効率性』を測定し始めたら?」
翌朝、相葉は鏡の中の自分を見つめた。いつもと変わらない顔。しかし何かが違っていた。
会社に着くと、新しいリストが届いていた。今度は十二名。相葉はタブレットの画面を見つめた。一番上に表示された名前は、三年前に入社した若い女性だった。小さな娘がいると聞いたことがある。
相葉は立ち上がった。そして初めて、上司の部屋のドアを叩いた。
「基準の見直しを提案したいのですが」
「なぜだ?」常務は眉をひそめた。
「現在の基準では、経験豊富な作業員や、家庭の事情を抱えた社員を失う可能性があります」
「君らしくない発言だな、相葉君」
相葉は引き下がらなかった。その日の午後、彼は詳細な資料を作成した。AIの算出方法への疑問。人的要素の重要性。数値化できない価値について。夜遅くまでかかって、二十ページの提案書を完成させた。
しかし翌日、常務は資料に目も通さなかった。
「相葉君、君の仕事は数字を管理することだ。哲学を語ることじゃない」
相葉は諦めなかった。週明けに再び提案した。今度は役員会議で直接発言した。
「人間を数字だけで測ることに、疑問を感じています」
会議室が静まり返った。
二週間後、相葉は社長室に呼ばれた。
「相葉君」社長は静かに言った。「君の最近の行動について、株主から懸念の声が上がっている」
相葉は背筋を伸ばした。
「会社の効率化に異議を唱えることは、業績悪化につながる。君にはこの会社を去ってもらう」
面談室で、相葉は自分が三か月間繰り返してきた言葉を聞いた。
「会社の方針です」
相葉は静かに頷いた。
「そうですか」
山田と同じ言葉が、自分の口から出ていた。
今日、相葉は切られたのだった。
三月の雨の日、相葉は佐藤健太の法律事務所を訪れた。受付で名前を告げると、佐藤がすぐに出てきた。
「相葉さん」佐藤は少し驚いたような表情を見せた。「どうされましたか」
相葉は椅子に座ると、静かに口を開いた。
「私は、どうすればいいんでしょうか」
佐藤は相葉の顔を見つめた。その目には確かに変化があった。しかし同時に、まだ答えを他者に求める何かも残っていた。
「相葉さん」佐藤はゆっくりと言った。「それを決めるのは、あなた自身です」
相葉は窓の外を見た。雨が静かに降り続いている。
彼はまだ、その意味を理解しようとしていた。
