【短編小説】地雷の思考と悲しき恋愛
運命の人がいる。きっと、そう。
毎朝8時12分の山手線、3両目。私はそれを知っている。
知っているというより、発見した。三週間前の金曜日。文化人類学のレポートで48時間寝ていない私の前で、ひとりの男が席を立った。ただ立って、私に席を示した。その姿を見ながら、私は座った。
それからその人を観察している。フィールドワークというやつだ。身長184センチで、筋肉質。紺のスーツは既製品じゃない。革靴は手入れされている。持ち物はいつも整理されている。混雑した車内でも、その人の周りだけは違う。秩序がある。
今日、その人は青いファイルを持っている。私のペンケースと同じ青。
偶然なんてない。色彩心理学で青は知性と信頼の象徴。同じ色を選ぶのは深層心理の共鳴。これは事実。
昨日は灰色のジャケット。私は灰色のカーディガン。一昨日は黒い革靴と黒いタイツ。三日連続。確率論的に偶然の域を超えている。
月曜日、その人は網棚に段ボールを置いたまま降りようとした。私は迷った。一秒だけ。でも体が動いていた。
「忘れ物です」
振り返った顔は一瞬驚いて、すぐに安堵に変わった。「ありがとうございます」と低い声で言う。段ボールの宛名は「西野誠様」。
西野誠。
西野誠と東山心。西と東、野と山、誠と心。対になっている。陰陽、天地のように。
それから詳細に観察するようになった。読んでいるのは経済誌。スマホケースは黒革、シンプル。左手薬指に指輪はない。重要な情報。
火曜日、同じ瞬間に車窓を見た。ビルの隙間の富士山に、同時に視線を向けた。息が止まる。同じ感動を共有している。魂の共鳴。
水曜日、西野さんがお茶を飲んだ瞬間、私の喉が渇いた。偶然持参していたお茶を、同じタイミングで飲む。生理的リズムの同期。生物学的証拠。
木曜日の混雑で肩が触れた。「すみません」と言うけれど、謝る必要なんてない。満員電車という装置が物理法則で私たちを接触させた。運命は重力と慣性を使って人を導く。
金曜日は雨だった。新宿駅の改札を出ると、予報にない激しい雨。傘を持たない私は立ち尽くしていた。
「これ、使ってください」
振り返ると西野さんがビニール傘を差し出している。透明な、普通の傘。
「西野さんは?」
「折り畳み傘がありますから。先日は忘れ物を教えてもらって、ありがとうございました」
記憶していた。西野さんは、月曜日のことを覚えていた。このビニール傘は雨具じゃない。記憶と感謝の物質化。言うなれば、聖具。
その夜、部屋の一番目立つ場所に傘を飾った。新しい章の始まり。
次の週から朝が変わった。西野さんの観察が中心軸になった。服装、表情、仕草、立ち位置。データを収集し、分析し、意味を見出す。
月曜は疲労、金曜は安堵。私もまったく同じ感情変遷。週初めの憂鬱、週末への期待。感情の完全なシンクロナイズ。
火曜日、西野さんがくしゃみした瞬間、私の鼻腔がむずむずして、続いてくしゃみ。同じ空間の二人が同じ微粒子に反応する。呼吸器系の共鳴。肺が同じリズムで酸素を取り込んでいる。
水曜日、西野さんが新聞をめくるたび心拍数が上がることに気づく。なぜ彼の動作に私の心臓が反応するのか。答えは明白。私の心臓は彼の指揮下にある。
木曜日、決定的発見。西野さんの足のサイズは27センチ。私は23.5センチ。差は3.5センチ。私の誕生日は3月5日。3と5。数値の一致は数学的必然性。彼の身体的特徴は私の存在を前提に設計されている。
金曜日、戦慄した。西野さんの髪が先週より3ミリ伸びていた。私の髪の成長速度と完全一致。細胞分裂の周期まで同調。疑う余地はない。生物学的運命共同体。
二か月間の観察と分析の結果、すべての証拠が一つの結論を指している。この発見を伝えなければならない。論文にしようかと思ったが、まずは言葉で。
新宿駅で西野さんを呼び止めた。
「西野さん」
振り返る。新しく購入した傘を差し出す。彼からもらった傘は部屋で聖具として保管されている。
「先日は傘をありがとうございました。お話があります」
深く息を吸う。二か月間の観察結果を適切な言葉で要約しなければ。
「私、西野さんを好きになりました」
西野さんの表情が変わった。眉がわずかにひそめられ、口元が困惑。そして、僅かな微笑み。
「ありがとうございます。でも申し訳ない。恋人がいるんです」
世界の音が消えた。駅のアナウンス、足音、電車音、すべてが遠のく。立っている。ただ立っている。
「そうですか」
自分の声が、他人のよう。
「そうですよね」
西野さんは会釈して改札に向かう。いつもの歩調で、いつものスピード。紺色のスーツの、184センチほどの男性。朝の通勤ラッシュを歩いていく一人の会社員。
手には自分で購入したビニール傘。透明な工業製品。雨の日に使う機能的道具。西野さんの傘じゃない傘。それが問題だったかもしれない。神聖な傘を偽ったから天罰が下ったんだ。
明日も8時12分の山手線、3両目に乗る。西野さんもそこにいる。
西野さんは美しい。恋人がいても変わらない事実。その恋人もきっと、私と同じように西野さんの完璧さに気づいたのだろう。色の一致、生理的同調、数値的必然性。すべてを発見したのだろう。
私だけじゃなかった。共感してくれる人がいる。理解者がいる。
それは嬉しいことじゃないか。
視界がぼやけているのは、嬉しさのせい。
きっと、そう。
