【短編小説】死に至る「平等」な光
広岡健太郎は、数字だけを信じていた。
彼は、電力会社の部長だった。十八年前、曖昧な判断で大停電を引き起こした。感情的な配慮と経済的効率性の間で迷い、中途半端な電力配分を決めた結果、予想外の大規模停電が発生した。経済は混乱し、交通は麻痺し、救急搬送が遅れて八十二歳の老人が亡くなった。
それ以来、彼は数字だけを信じるようになった。そうして、彼の人生はようやく軌道に戻った。
午後二時四十三分。室温二十八・二度。湿度六十七パーセント。明日の最高気温四十二度、電力需要予測値が供給量を八・三パーセント上回る。
「輪番停電を実施します」広岡は資料を開いた。「全二十三区、各地区二時間ずつ。数学的に最も平等です」
東都電力筆頭株主の西園寺真理子は、会議テーブルの向かい側から冷静に尋ねた。「どちらの地区から始められますか?輪番停電を実施して、猛暑をしのぎ切れるのでしょうか」
「効率性指数の低い順番です。城南地区、城東地区、それから——」
「住宅地ばかりですね」
「当然でしょう。GDP寄与度、電力効率性、すべて計算済みです。全員が同じ時間停電する。これ以上平等な方法はありません」
新入社員の浅井雄介が恐る恐る手を挙げた。「あの、暑さ対策には扇風機を配布するとか——」
「浅井」広岡は振り返りもしなかった。「お前は黙ってろ」
「在宅医療機器を使用している世帯は三万二千。認定基準から漏れる世帯も含めれば、その倍はいるでしょう。平等と公正は違います」真理子の声には刺があった。
「どういう意味ですか?」
「全員に同じ靴を配るのが平等。足のサイズに合った靴を配るのが公正です」
浅井がおずおず手を挙げた。「じゃあ、モバイルバッテリーを配布するとか——」
「浅井」広岡が苛立った。「医療機器がモバイルバッテリーで動くと思ってるのか?」
真理子が続けた。「企業による緊急節電を提案します。西園寺グループ関連企業だけで都内電力消費の六パーセント。他の企業と協調すれば十五パーセントの削減が可能です」
「成功率はいかほどですか?」
「企業の協力次第ですが、八割以上の確率で——」
「二割の確率で都心部全体が大停電します」広岡の声に苛立ちが混じった。「三百万人が影響を受ける。一部住宅地の二時間停電と、どちらがリスクとして適正か、計算もお分かりにならないんですか?」
「命の方が大切です」真理子が毅然と言った。
「そんなことは重々承知です」広岡の敬語がわずかに崩れ始めた。「しかし、全停電すればもっと多くの命がなくなります。企業活動が停止すれば、医療費も介護費も払えなくなる家庭がどれだけ出ると思いますか?」
浅井が再び小声で尋ねた。「そもそも、なんでもっと電力作れないんですか?」
「浅井!」広岡が声を荒げた。「黙っていろと—」
真理子が遮った。「いずれにしても、数字では人は救えません」
「救えないのは西園寺さんの理想論です」
浅井が三度目の手を挙げた。「あの、エアコンの温度を上げるとか——」
「そんなことはとっくに周知している」広岡が苛立たしげに言った。「二十八度設定は既に徹底済みだ」
浅井が恐る恐る口を開いた。「じゃあ——」
「黙ってろと言っただろう!」広岡が怒鳴った。
「でも」浅井は引き下がらなかった。「なんで住宅地なんですか?」
「は?」
「オフィス街は停電させないんですか?丸の内とか、新宿とか」
広岡は深いため息をついた。「お前は本当に何も分かってないな。あそこは日本経済の中枢なんだぞ」
「でも」浅井は首を傾げた。「そこで働いてる人たち、家でも仕事できますよね?」
「何を馬鹿なことを——」
「僕の兄貴、商社に勤めてるんです。会議も書類作りも、別に会社じゃなくてもできるって。なんで電車賃かけて、電気バカ食いするビルに集まるんですか?」
真理子が息を呑んだ。「確かに、物理的な場所を必要としない業務も多いですね」
「そんな単純な話じゃない」広岡の声が上ずった。「チームワークが、コミュニケーションが、生産性が——」
「でもさっき、『命の方が大切なのは分かっている』、と言いませんでした?」浅井が素朴に尋ねた。
沈黙。
「それに」浅井は続けた。「インフラとか銀行は確かに大事だと思います。でも、会議とか資料作成なら、家でもできませんか?」
真理子が呟いた。「基幹業務だけ残して、その他は在宅に…」
浅井がふと思い出したように言った。「そもそも、その会議って本当に必要なんですか?僕、入社してから毎日いろんな会議に出てるんですけど、なんのための会議か分からないのがいっぱいあって…」
真理子は苦笑した。「確かに、そういった業務が多いのは事実ですね。会議のための会議、報告のための報告…本当に価値を生んでいるか疑問な仕事は少なくありません」
「工場とかパン屋さんは、機械止めたら本当に困りますよね。でも会議なら、家のパソコンでもできるじゃないですか」
「それは…」広岡の手が震えた。
「病院も老人ホームも、電気止まったら人が死にます。でも、会議とかメールなら、家の電気だけあればできますよね?電車だって運行減らせるし」
浅井は続ける。「一番大事って言ってる場所が、実は一番家でもできる場所ってことじゃないですか?」
「浅井…」
広岡は長い間、画面の数字を見つめていた。効率性指数。GDP寄与度。すべて、ある前提に基づいて計算されていた。
「オフィスに人が集まることが必要である」という、疑ったことのない前提に。
「十八年前も」真理子が静かに言った。「そんな『常識』で判断されたんですか?」
広岡の顔が青ざめた。「あの時も、経済への影響を最小限にと考えて…」
「そして人が死んだ」
「…はい」
浅井が困惑した顔で二人を見た。「僕、何か変なこと言いました?」
「いや」広岡は力なく首を振った。「お前が一番正しいのかもしれん」
真理子が微笑んだ。「平等に全員が苦しむより、公正に負担を分けた方がいいかもしれませんね」
窓の向こうに見える丸の内のビル群。午前十一時、太陽は焼け付くように照っているのに、すべての窓に明かりが灯っている。そこで今日も何万人が、パソコンの前に座って、メールを打ち、会議をし、資料を作っている。
それは本当に、人の命より重要なのだろうか。
「午後から」真理子が提案した。「丸の内を歩いてみませんか?オフィスでやるべき仕事がどれくらいあるか、この目で確かめましょう」
広岡は頷いた。十八年間、数字に隠れて見ようとしなかった現実を、今日見ることになる。
エアコンの音だけが、会議室に響いていた。今日の午後への、静かな前奏曲のように。
