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【短編小説】生きることは雪の日とバッハのように

冷たい空気が車窓を曇らせる朝だった。松本禅はハンドルに手を置いたまま、吐く息が白く霞むのを眺めていた。フロントガラスの外では、小さな雪片が舞い始めていた。

「受験生には厳しい天気だな」

コンビニのホットコーヒーを一口飲み、彼は空の色を見上げた。鉛色の雲が低く垂れ込め、世界全体を覆い尽くしているようだった。


松本が乗務するタクシーは、冬の朝の静寂の中を進んでいた。一見何の変哲もない日常だが、彼の胸の奥には朧げな不安が漂っている。

昨日の夜勤明けに見たニュースが、まだ頭の片隅で鳴り響いていた。「自動運転技術の発展により、タクシー業界に革命的変化」。

寺の次男として生まれた松本は、実家の香りを今でも鼻先に感じることができた。冬の早朝、本堂に響く読経の声。長男の兄は今、父の跡を継ぐ準備をしている。
彼自身は違う道を選んだ——いや、選ばされたのかもしれない。
そして今、道を失う岐路に立たされている。

車載スピーカーからは、バッハの平均律が静かに流れ出していた。松本は少し音量を上げた。舞い落ちる雪と溶け合う旋律に身を委ねながら、彼は目の前の信号が変わるのを待った。

乗車依頼の無線が鳴った。松本は車を向かわせた。


薄く雪化粧された住宅街の一角で、若い男が待っていた。制服に厚手のコートを羽織り、両手をこすり合わせている。顔には緊張の色が滲んでいた。

「東都大学までお願いします」

若者は後部座席に乗り込み、そう告げた。膝の上の受験票を無意識に弄んでいる。

「今日は本番ですか」

松本は後部座席に目をやった。バックミラーに映る若者の顔は緊張していた。

「はい。共通テストです」

受験生は簡潔に答えた。カバンから参考書を取り出し、最後の確認をしている。

松本は黙って運転に専念した。

「受かるか心配で…。薬学部志望なんです」

後部座席から声が聞こえた。松本は少し意外に思った。

「医療関係ですか。立派ですね」

「化学が好きで。人を助ける仕事をしたいんです」

若者は雪が降る窓の外を見つめていた。声は小さかったが、その目には確かな光があった。

松本は黙ってハンドルを握った。彼も昔はこうだった。未知の世界へ不安と期待を抱えて。
あのとき、父は何と言っただろう。

「人生は執着から離れる練習だ」

その意味を理解するには時間がかかった。今、タクシーの座席に座るこの若者も、自分の道を見つけていくのだろう。

大学が見えてきた。敷地には受験生たちが集まり始めていた。松本は入口付近で車を止めた。

「ありがとうございます」

若者は急いで降りていった。雪に吸い込まれるように、白い背中が遠ざかる。


受験生が降り、入れ替わりで次の客が見つかった。大学のロータリーに中年男性が立っていた。肩に雪が積もっている。

「中央病院までお願いします」

男性は後部座席に乗り込んだ。疲れた様子だった。

「受験関係の方ですか?」

「ええ、車椅子の生徒の付き添いでした。保護者の方のご都合がどうしても合わず」

雪は次第に強くなっていた。松本はワイパーの速度を上げた。車内は静かだった。

「あの」

男性が後部座席を指差した。

「何か落ちていますよ」

松本は驚いて振り返った。シートの間に学生証が挟まっている。

「先ほどの方が落としたんですね」

男性は学生証を手に取り、ちらりと見てから松本に渡した。学生証には「水野陽介」と書かれていた。

「共通テストに学生証って、使いましたっけ?」松本が答える。

「本人確認は受験票でやりますし、不要なはずです」

「でも、後で焦るかもな。届けておきます」

松本は学生証をダッシュボードに置いた。

雪は次第に強くなっていた。バッハの旋律が車内に静かに満ちている。松本はハンドルを握る手に力が入った。

「このバッハ、加藤雪音の演奏ですね」

男性が静かに言った。松本は少し驚いて、バックミラーで男性を見た。

「ええ、そうです」

男性は窓の外を眺めながら、静かに言葉を継いだ。「音楽は不思議なものですね。技術で再現できるけれど、何かが違う」

松本は頷いた。男性の言葉に何か通じるものを感じた。

「いつか、タクシーも技術で代替されるのでしょうか」

松本は胸に軽い痛みを感じた。「ニュースを見ましたか。その話題、避けたいところです。不安でね。」

松本の声には、僅かな苦さが混じっていた。一瞬の沈黙の後、続けた。「テクノロジーは進化していきますからね。でも機械に任せられないものもあると信じたいです」

男性は窓の外に目をやりながら言った。「時々思うんです。私たちは皆、何かの重荷を抱えて生きているって」

松本は無言で雪道に集中した。男性の言葉が胸に沁みた。

「将来への不安は誰にでもあります。私も...」

そこで男性は咳き込んだ。一瞬、痛みに顔をゆがめる。

「大丈夫ですか?」

「ええ。持病があって。今日も検査の日です」

男性は軽く手を振った。何かに慣れているような仕草だった。

車内に沈黙が戻った。雪の音だけが聞こえる。

「お寺に縁がおありですか?」

松本は少し驚いた。ダッシュボードの小さな仏像に男性の視線が注がれていた。

「寺の次男です。兄が継ぐ予定で」

「そうですか」

男性は静かにうなずいた。二人は同じ冬の風景を見ていた。

中央病院が見えてきた。男性は降りる前に言った。

「苦しみや不安から逃れることはできません。でも、それを知ることで見えてくるものがある」

松本は父の顔を思い出す。
男は雪の中へ消えていった。

松本は学生証を手に取った。若者の真剣な表情が写っている。この少年の人生はこれからだ。そして自分自身も、まだ道の途中なのだ。

バッハの旋律を少し大きくして、松本はエンジンをかけなおした。


雪が舞う街を、タクシーはゆっくりと進んでいく。高校の門が見えてきた。

松本は、足早に校舎へ向かう女性教師の姿を見た。彼女の肩にも雪が積もっていた。彼女にも、きっと不安があるのだろう。

雪の朝、人々は皆、何かの重荷を抱えている。それでも、それぞれの意志で前に進んでいく。

松本は水野陽介の学生証を見つめ直した。

雪はまだ降り続けていた。
空の一角に、かすかな光が差し始めていた。


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