【短編小説】構造と実存は相性が悪い
東都電力の広岡部長は困惑していた。
アフリカ電力支援事業の会議で、プレゼンに来たシンクタンクの二人が論戦を始めたのだ。
「現地の人たちが自分で選べる仕組みを」猿川譲二の声に迷いはない。「一番大切なのは、彼ら自身が決めることです」
「美しい話ですね」須藤麗子が報告書をめくる。「でも『選べる』という感覚そのものが、見えない力に誘導されているとしたら?」
譲二の眉が動く。
「君は人間を傀儡だと思ってるのか?」
「私は人間を見てるだけです。ちゃんと、構造ごと」
まるでメスだった。彼の理想を躊躇なく切り裂く。
論戦は一時間を超えていた。
「まとめてから来てくれ」広岡が時計を見た。
三丁目のカフェは満席だった。
譲二が唯一空いているテーブルに座ると、隣でノートパソコンに向かう麗子の姿があった。心臓が跳ねる。
「偶然だな」
「偶然とは限りませんよ」画面から目を離さず、彼女が答える。「このあたりなら、似た職種の人間が集まるのは当然です。統計的には」
「僕は自分の選択でここに来たつもりだけど」
「それも、いろんなものに背中を押されていたのかもしれませんね」
譲二は笑ってしまった。厳密で、なのにどこか寂しげな論理。
「少なくとも、君がいるから来たわけじゃない」
「私も、あなたが来る店と知っていたら別の店を選んでいました」
しかし二人とも、椅子から立つことはなかった。
深夜のシンクタンク。
プリンターの音だけが響く。麗子は資料を追い、譲二は理論の見直しに取り組んでいた。
十一時。譲二が立ち上がり、二つの紙コップにコーヒーを注ぐ。
「一度に入れた方が効率的だからな」彼女のデスクに置く。「君のためじゃない。習慣みたいなものだ」
麗子が手を止め、カップを見つめる。
「合理的ですね。でも、私が飲むかどうかはあなたの選択ではありません」
「別に、君が飲まなくても困らない」
「じゃあ、最初から一つだけでよかったでしょう?」
「うるさい」
窓の外に雨音が混じり始める。
「数字の裏には誰かがいるはずなのに」彼女がぽつりと呟く。目は画面を見ているのに、言葉は遠くへ向かっていた。
「でも、その誰かの行動も枠の中で決まっていく。感情だって、そうかもしれない」
譲二の手が止まる。
「君がそんなこと言うなんてな」
「自由って、限られた選択肢に気づかないふりをしてるだけでしょう?」
視線が交わる。冷たい理論と熱い願いが触れ合った。
「君の分析、少しなら認めよう」
「結構です。あなたの理想は眩しすぎる」
翌日の書店。
『アフリカ社会構造論』に手を伸ばすと、別の手が重なった。
またしても麗子だった。
「参考文献ですか?」
「仕事だ」
レジに並び、外に出ると歩く道が同じだった。雨が降り出している。
「傘、持ってないのか?」譲二が尋ねる。彼女の肩にしずくが滲んでいた。
「大丈夫です。濡れるかどうかは条件次第ですから」
「そうやって全部割り切るなよ」
「私はただ説明してるだけです」
譲二は傘を差し出した。「これは僕の選択だ」
麗子は戸惑いながらも、そっとその傘に入った。
「なら、合理的な行動として受け取っておきます」
「またそれか」
「あなたがそういう人だから、私はこうなるんです」
肩が少し触れた。離れようとすると、傘からこぼれてしまう。
だが、現実は甘くない。
「この提案では構造的な問題を放置することになります」会議室で麗子の声が響いた。「一人の意思を優先するあまり、全体の歪みを広げることになります」
譲二も立ち上がった。「君は、その人が何を望んでるか本当に見てるのか?」
「見ています。でも、願いだけでは足りません」
「分析だけでも足りない」
二人の間に何かが崩れる音がした。
「やっぱり僕は君とは組めない」
「私も、そう思います」
その日から、言葉が消えた。
一週間後。
麗子は研究室で一人、報告書を閉じていた。
「行き詰まりました」誰に向けたのでもない呟き。データの数字が、ただの数字にしか見えなかった。
「構造は時間をかけなきゃ変わらない。でも目の前にいる人は今、困っている。彼の言ってたことは間違っていなかった」
譲二もまた、図書館の片隅で膝を抱えていた。
「自由なんて言ったけど、僕の中身は空っぽだった。彼女の全体を見る視点がなければ、何も届かない」
それぞれの場所で、同じ壁にぶつかっていた。
締切の前夜。午前三時。
研究室の灯りだけが静かに世界を照らしていた。扉が開き、譲二が入ってくる。
「ここ、使ってもいいか?」
「ええ、どうぞ」
それだけ交わして、沈黙が戻る。でも空気が少し温かかった。
五時になったころ、麗子の手が止まった。
「もう無理です。私ひとりじゃ進めない」
「僕もだ」譲二が隣に座る。
「君の構造分析と僕の願いのようなもの。対立してると思ってたけど」
「ぶつけることで、見えてきたこともあったかもしれません」
顔を見合わせた。朝の光が窓の端に差し込んでいた。
「君がいない自由なんて、空っぽだった」
「あなたの情熱がなければ、私はただの観察者で終わってました」
二人は最後の文を打ち込んだ。
『統合型支援モデル──個人の意思と社会構造の調和を目指して』
鳥が鳴いた。夜が明けた。
「これなら現実的だ」広岡は資料を閉じ、頷いた。「現地の声を拾いつつ、根本的な問題への配慮もある。文化も人も、ちゃんと視野に入っている。こういう提案が必要だった」
プレゼンを終え、帰り道。
二人は並んで歩く。
「私たちの関係は構造的に、無理のある組み合わせかもしれません」麗子がぽつりと呟いた。
「それでも僕は君を選ぶ。たとえ何度でも」譲二が言った。
麗子は立ち止まった。
「でも、私はあなたを選びません」
二人の足が止まる。譲二は、困惑した表情で彼女を見つめた。
「私は選ばされるんです」
「何に?」
麗子は少し笑った。初めて見る、やわらかな表情だった。
「あなたという要因に」
春の陽が差し込んでいた。
構造論者が、理論を証明した瞬間だった。
