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【短編小説】虚像の虚像と間の虹

「シミラ・コーラ、冷蔵庫にない?」

鈴木淳は朝の陽光に浮かぶリビングで、寝癖を直しながら尋ねた。

「ああ、あるわよ。最近ヨンヨーの冷蔵庫に買い替えたから、よく冷えてるわ」

由美が答え、白い光沢のドアを開ける。整然と並んだ食材の中から真紅の缶を取り出した。その手つきはどこか計算されたようで、缶の赤いロゴが朝日に輝いた。

鈴木は缶を開け、一口飲んだ。「やっぱシミラ・コーラうめえわ!」


「カット!完璧よ」

モニターの前で松田薫は満足げに微笑んだ。
彼女は広告代理店「クリエイティブネクサス」で最年少ディレクターに抜擢された実力者だった。彼女の手がける企画は必ずヒットし、業界では「欲望の魔術師」と呼ばれていた。

「セカンド・ハウス」。
このリアリティショーは表向き「共同生活を送る若者たちのドキュメンタリー」だったが、実際は彼女が仕掛けた巨大な広告空間だった。

シミラ・コーラを始めとするスポンサー製品が、あたかも日常の風景の一部のように画面に溶け込む—それこそが彼女の戦略だった。

「今日はシミラ・コーラを飲むとき、ほんの少し躊躇うような仕草を入れて」

撮影前のミーティングで、松田は草野に囁いた。彼は頷き、何も言わなかった。スタジオの外では、彼は「草野太樹」という名の売れない俳優だった。
最後のチャンスと思い受けた仕事。彼は、カメラの前では「鈴木淳」という平凡なオフィスワーカーになる。松田だけが作った、「リアル」を作るための嘘。

撮影が終わると、草野は静かにグリーンルームを後にした。帰り道、彼は街角の広告を見つめた。人気アイドル・高城が笑顔でシミラ・コーラを手にしている。その表情は完璧すぎて、どこか現実離れしていた。

草野は思った。自分は高城のようなスターにはなれないが、「鈴木淳」としてなら、テレビの中で輝ける。


青山の隠れ家バーで、草野は氷の浮かぶグラスをゆっくりと回していた。窓の外では梅雨の雨が静かに街を濡らしていた。

「松田さん…鈴木淳と草野太樹の区別が、時々わからなくなるんです」

彼の声はジャズピアノの低音部に溶け込むように静かだった。
松田は微笑んだ。彼女の企画は大成功していた。シミラ・コーラの売上は三倍になり、番組で使われるヨンヨーの家電製品は品切れが続いていた。

「役者としては最高の褒め言葉じゃない」

松田は言ったが、心のどこかで不安が広がるのを感じていた。窓ガラスに映る自分の顔と、グラスの氷に映る顔が、少しずれているように見えた。


「でさ、今日僕、夢見たんだ。ずっとシミラ・コーラを探してる夢」

朝のリビングで、鈴木淳は少し恥ずかしそうに笑った。カメラは彼の表情を捉え、他の出演者たちの反応を映す。

「あらー、中毒になってるんじゃない?」と由美が冗談めかして言うと、全員が笑った。

「いやマジで。夢の中で自分が本当に鈴木淳になった気がして…」

その言葉に一瞬の沈黙が流れた。脚本にはない展開だった。
モニターの前で松田は眉をひそめた。


真実は突然、雷のように落ちた。

「『セカンド・ハウス』の鈴木淳は俳優だった」

週刊誌の見出しは、夏の始まりを告げる雨のように容赦なかった。草野の学生時代の舞台写真と、鈴木淳の映像が並べられていた。二つの顔、二つの人生、しかし同じ人間。コピーなきオリジナル、オリジナルなきコピー。

根拠のない記事が量産されていく。
コピーがコピーされ、また別のコピーを産んでいく。真実のない恐怖。

テレビでは日々報道が繰り返され、スポンサー企業は「事実確認中」と発表した。松田の携帯は鳴り止まず、会社の廊下では彼女の名前が囁かれた。

その日の夕方、草野は記者会見場に立っていた。白いシャツの襟元をきちんと整え、無数のフラッシュを浴びながら、彼はマイクの前で静かに口を開いた。だが、言葉は出てこなかった。

自分が鈴木なのか、草野なのか。もはや彼自身にもわからなかった。

彼はかろうじて、マイクに向かって息を吸った。しかし、その息すら、もはや嘘に思えた。

カメラのシャッター音だけが響く部屋で、彼は小さく首を振り、そして何も言わずに席を立った。


桜の花びらが舞う住田公園で、松田は彼を見つけた。あれから二年が経っていた。  

草野は土に手を沈め、黙々と花々を植えていた。彼は芸能界を去り、庭師のアルバイトを始めていた。松田は手を尽くし、いくつか役者の仕事を見つけてきたが、草野は全ての話を断った。

松田は花壇に向かった。朝の光が水滴を宝石に変え、真紅と青の花が互いを引き立て合っていた。

草野は振り向くと、黙ってじょうろを差し出した。
彼の表情には、かつての迷いはなかった。土の中に手を沈める時の安らぎが、今は彼の全身から溢れていた。

二人で水を注ぐと、陽光の中に小さな虹が浮かんだ。

それは真実でも偽物でもない。ただその間に在る、一瞬の確かな光だった。

草野の後日譚はこちら


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