【短編小説】野球なんて球遊び
暗くなった二軍グラウンドに、打球音が響く。
白崎信也、三十一歳。プロ十二年目。守備には定評があるが、ここ数年の打率は二割一分台。一流のプロ野球選手という言葉は、とうの昔に手の届かないものになっていた。
たまに一軍に呼ばれても、怪我をした選手の補填。その上、最近は若手が優先される。
俺の代わりなんて、いくらでもいる。
かつて見た二刀流のスーパースター。その姿が頭を掠める。
三年前の春。一軍の監督室から呼び出された白崎は、二軍降格を告げられた。ロッカールームで荷物をまとめていると、ベテラン選手が肩を叩いた。
「気にすんな。所詮は球遊びだろ?」
その言葉は、白崎の中に居座った。
二軍コーチが声をかけた。
「最近、熱心だな」
「所詮は球遊びですよ」
白崎は肩をすくめて笑った。いつもの台詞だった。
「その球遊びを、20年も続けてるんだろ」
問いかけに、ふと言葉が止まった。
——小学校の頃。
放課後の空き地。誰かが「野球やろうぜ」と声をかけ、あとは日が暮れるまで走り続けた。あの頃は、何も考えなくて良かった。ただ、楽しかった。
翌日、練習を終えた白崎は、見学に来ていた小学生たちに囲まれていた。
「すごい!プロ野球選手だ!」
少年たちの目が、まっすぐこちらを見つめている。
「野球って楽しいですか?」
一人の少年が尋ねた。名札には西野誠とある。
「楽しいよ。毎日遊んでるみたいだ」
そう答えながら、白崎は少し戸惑った。
「でも、プロなのに遊んでたらダメですよね?」
その問いに、足元が少しぐらついた気がした。
「野球は、真剣な遊びなんだ。だから楽しいんだよ」
言葉を口にしたとき、自分でも驚いた。「所詮」は「真剣」に、自然と変わっていた。
その夜、ホテルの部屋で白崎は天井を見つめていた。
「真剣な遊び」
その言葉は何だったのか。自分でも驚いた。
三年生の夏、友達と始めた野球。グローブもなく、棒切れをバットにして、古い軟式ボールを投げ合った。ルールなんてろくに知らなかった。ただ、打って走るのが楽しかった。
あの頃の自分は何を見ていたのか。ボールだけだ。ただひたすらボールを追いかけていた。
いつから俺は、スタンドや成績表、契約更改の数字を気にするようになったのか。
プロの世界では、数字がすべてだ。失敗は即、居場所の喪失を意味する。
「所詮は球遊びだ」という言葉は、自分を守る盾だった。本気を出して、それでも届かなかったときの痛みを、和らげるための。
でも、この盾は同時に、自分自身を野球から遠ざける壁にもなっていた。
——でも、もう違う。
「真剣に遊ぼう」
姿勢は変わった。
打撃練習も守備も、かつての少年のように没頭した。
成果はすぐには現れなかった。むしろ焦りから空回りし、調子を崩した。
「あいつ、クビが怖いのか」
「今さら頑張ってもな」
そんな声が背中に刺さった。
ある日、ポケットの中で携帯が震えた。フロントからの連絡だった。
「一軍のショートが怪我をした。明日から合流してくれ」
嬉しさでも、不安でもない、どこか遠い感情が胸をかすめた。かつて憧れた舞台。今は、落ちぶれた自分を見せる場所。それでも、もう一度、真剣に遊ぶチャンスかもしれない。
そして迎えたシーズン終盤。
リーグ優勝をかけた大一番。
白崎は八回から守備固めで出場した。一点リード。
同点の八回表、一死満塁。ショートゴロが飛んだ。
白崎は横っ飛びでボールを掴む。
起き上がりざま、ホームへの送球がわずかに逸れた。
クロスプレイ、セーフ。同点。
その後、投手が崩れ、三点差となった。
ホームに投げず確実にアウトをとっていれば、同点のままで済んだかもしれない。白崎は、天を仰いだ。
スタンドから怒号が飛ぶ。「白崎!遊んでんじゃねぇよ!」「なんでホーム投げたんだよ!」「守備固めで出てきて判断ミスするな!」
チームに重苦しい空気が流れていた。
九回裏、打順は四番から。相手ピッチャーは剛腕のセーブ王。
白崎は、ベンチでバットを見つめていた。
四番バッターがフォアボールで出塁する。
五番、見逃し三振、一死。
六番、ライト前ヒット、ランナー、一三塁。
七番、インフィールドフライ、二死。
監督は八番に代打の切り札を出す。
しかし、敬遠。
二死満塁。三点差。
打順は、白崎。
代打は、使い切っていた。
「白崎」監督の声が響いた。
「お前に託す」
バッターボックスの中で、白崎は大きく息を吐いた。
相手ピッチャーは、珍しくコントロールを失っていた。とはいえ160キロ近い剛腕。白崎には打てない。見極めて、フォアボールを狙うか?
第一球、145kmのスライダーが内角低め一杯に決まる。打てるわけがない。
第二球、ど真ん中への失投。慌てて振るが、空振り。
第三球、150kmのスプリット。手がでない。
しかし、ボール。白崎は小さく安堵した。
その瞬間、脳裏に浮かんだのは、小さな頃の記憶。
白球を追いかけ、投げ、打つ。
誰にも褒められなくても、ただ野球が楽しかった。
相手が強いから諦める、なんて考えたこともなかった。
「球遊び」という言葉が、胸に浮かぶ。
でも、それはもう逃げの言葉ではない。
ピッチャーの腕が振り下ろされた。
周囲の音が消えていく。スタンドも、ベンチも、数字も、すべてが消えた。白崎は、ただボールだけを見つめた。
そこにあるのは白い球と、それを打ちたいという純粋な欲望だけ。
バットが、吸い寄せられるように動いた。
快音。
打球は一塁線を破る。
白崎は走った。
全速力で、ベースを蹴る。
いつもより、息が苦しい。
「なんで、俺こんなに必死なんだ」
ボールが返ってくる。
コーチが腕を回す。
一つでも、塁を進めろ。
「たかが、球遊びだろ?」
土煙が舞う。
白崎は腕を伸ばす。
コンマ1秒でも早く、ベースに触れろ。
「遊びだから、必死なんだ」
「セーフ!ゲームセット!」
歓声が聴こえた。
球場が揺れる。
サヨナラ。
満塁ランニングホームラン。
大歓声の中、チームメイトに抱きかかえられながら、白崎は笑っていた。
それは、初めて野球に触れた、あの日のように。
俺の代わりはいくらでもいる。
でもこの瞬間、俺の代わりはいなかった。
