【短編小説】鉄風、鋭くなって
岸本は、今年も祭りの片隅に屋台を構えた。
何十年もの風雨で色褪せた射的の的。祖父から受け継いだ木の台。その屋台は祭りの中でも浮いていた。毎年同じ季節に住田川を訪れるが、顔を覚えてくれる者もいない。
薄暮が川面に広がり始めた頃、一人の少女が屋台の前に立っていた。じっと的を見つめるその瞳に、何か懐かしいものを感じる。
「やってみるか?」
彼は素っ気なく声をかけた。少女は無言で百円玉を差し出す。岸本は射的銃を手渡した。少女は両手で慎重に受け取り、銃口を的に向ける。
一回目、二回目。外れる。
三回目、岸本は薄笑いを浮かべた。
「嬢ちゃん、まだやるのか?」
四回目、五回目と続く。周囲の子供たちは呆れて立ち去った。
それでも、少女は撃ち続けた。
屋台の裏に住み着いた猫が鳴き声をあげた。誰にも愛されずとも生きる猫。薄汚れた白い毛に、茶色の斑。岸本は自分の姿を重ねていた。
十回目。鋭い金属音がした。
「当たった」
岸本の声に、自分でも気づかぬ驚きが混じる。少女は、埃をかぶったブリキの戦車を指差した。父の代からずっとあった、安っぽい玩具。
「なんだ、それか。何十年も誰も選ばなかったのに。落ちてないけど、いいよ」
彼は埃を払い、戦車を渡した。そして引き出しから取り出した古い漫画バッジも添えた。ピンは錆び、取れかかっていた。
「ついでだ。持ってけ」
猫が少女の足元に擦り寄る。少女が猫の頭を撫でる様子を見て、岸本は言った。
「こいつは野良だ。餌をやるなよ。愛着を持つと辛くなる」
翌日、少女はまた現れた。今度は屋台の外から、じっと岸本を見つめていた。
「何見てるんだ」
少女は黙ったまま、景品をじっとみている。いや、岸本を見ていたのかもしれない。
岸本は少しだけ考え、渋々と言った。
「入りたけりゃ入れよ」
猫もまた現れた。少女は「アズキ」と名付け、こっそり餌を与えていた。岸本は見て見ぬふりをした。彼もまた夜な夜な猫に餌をやっていた。
やがて日が落ちる頃、岸本は言った。
「俺は四代目だ。この仕事は昔からの家業でな」
少女は初めて笑顔を見せた。
「詩織。十二歳」
「詩織か」岸本は呟いた。
それから詩織は毎日のように射的屋を訪れた。最初は黙って手伝うだけだった。岸本も沈黙を守った。
古い景品を磨き、木の台を拭く。擦り減った銃の引き金を油で整える。そうした作業のなかで、彼は少しずつ詩織を受け入れていった。
詩織は決して多くを語らなかった。母を亡くした話も、友達ができない学校のことも。
しかし、岸本には分かった。彼女の動きの一つひとつが、言葉以上の孤独を語っていた。
彼も多くは話さなかった。孤独な旅の話も、夢を捨てた若い日々も、この先に続く空虚な道のりも。
彼女もまた、理解しているようだった。
小さな鉄の玩具を磨く指先。古い鉢巻きを結び直す手つき。黙々と水を運ぶ後ろ姿。
それらすべてが語りかけていた。
「俺たちは、誰にも気づかれていない」
そう言わなくとも、二人は知っていた。
遠くから少女の父親らしき男が二人を見つめていた。カメラを手に、娘を見守る眼差し。岸本にはその目に愛情が感じられた。羨ましくもあり、安心でもあった。
俺とは違う。詩織には帰る場所がある。
祭りも半ばを過ぎた頃、悲鳴が聞こえた。
「アズキ!」
住田川近くの路上で猫が車に轢かれていた。詩織は血にまみれた猫を抱き上げていた。
「岸本さん、助けて!」
彼は駆けつけたが、どうすることもできなかった。彼らは祭りの人ごみをかき分け、獣医を探した。時すでに遅く、猫は詩織の腕の中で静かに息を引き取った。
少女の涙を見て、岸本は懐かしい痛みを思い出した。人は離れていく。家業を継いだのも、その後も心を閉ざし続けたのも、誰とも深く関わらないための選択だった。
それでも、彼は詩織の肩に手を置いた。
「アズキを埋めよう」
彼女はただ頷いた。
二人は河原の小さな空き地に猫を埋めた。詩織はハンカチで猫を包み、岸本は小さな石を積み上げた。言葉のない葬儀。
風が鋭くなり始めた。岸本は初めて柔らかい声で語りかけた。
「失われるものがあってこそ、見えてくものもある」
その言葉は自分自身に向けたものでもあった。
詩織はポケットの中のバッジを取り出した。ピンが取れかかっていた。彼女はそれを大事そうに握りしめた。
その日の夕方、岸本は少し早めに屋台の荷物をまとめ始めた。季節の終わり。次の祭りへと移動する時だった。
「もう行くの?」震える声で詩織は尋ねた。
「それが香具師の宿命だ。一つの場所には留まれなくてね」
翌日、詩織は父親のカメラを持って現れた。岸本の手元、射的銃の傷、ブリキの戦車を静かに撮影していた。記録すること。それはまた別の形の記憶だった。
「何で写真なんか撮るんだ?」
「残したいの」
その言葉に、岸本は何も答えられなかった。
彼は生涯、消えていく役割だった。
祭りの最終日、岸本はすでに荷物をまとめ終えていた。住田川の橋の上に二人で立った。夕日が川面に赤く揺れている。アズキの眠る河原が見える。
「お礼が言いたくて」詩織は小さく呟いた。
「何もしてねぇよ」岸本は遠くを見ながら言った。
「俺の方こそ、誰かと話せて良かった」
風が鋭く吹き、少女の前髪が舞い上がる。
岸本は少女の制服の胸に縫い付けられたバッジに気づいた。錆びたピンを彼女は留め直していた。
壊れかけたものにも居場所がある。
そのことを証明するように。
「来年も来る」
彼女はそう言って、笑った。
鉄の鋲が打たれた橋の上で、風はまた、鋭くなった。
「俺も来るさ」
岸本も初めて、本当の笑顔を見せた。
夕焼けを浴びて、二人の影が川面に映る。それは長く伸び、時に重なり、時に離れた。
岸本は別の街へ向かう。
彼は立ち去り、彼女は残る。
それでも、二人の間に生まれた何かは、消えることはなかった。
