【短編小説】水は飲んでも飲まれるな
スマートフォンの画面に向かって微笑みながら、風間香織は言った。
「皆さん、ビジネスメッセージへの返信は必ず十分間待ってから。即レスは相手に『あなたのために考えていない』という印象を与えます」
収録を終え、香織はため息をついた。彼女は、今日もまた新たな「マナー」を世に送り出した。
彼女の動画は一日に数万回再生されていた。「知られざる一流のマナー」を発信し続けて半年。元CAとしての経歴が彼女に信頼性を与え、でっち上げたルールは次々と拡散されていった。
「香織、またやったの?」スマホには元同僚の河野陽からのメッセージが表示されていた。
「家賃払わなきゃいけないのよ」
「web会議ログインの序列って、本当にあるの?」
「あるわけないじゃない」
陽は航空会社時代からの友人で、香織がCAを辞めてマナー講師に転身した時から、彼女の伴走者だった。
「でもさ、みんな信じちゃってるよ。先週の講演会で『低地位者から入室』って言ってた人いたし」
香織は自嘲気味に笑った。「日本デジタルエチケット研究所の名前だけで信用されるから便利よね」
「ちょっと待って、そんな研究所作ったの?」
「ドメイン取っただけよ。でも誰も確認しないのよね」
最初はほんの少し誇張した程度のアドバイスだった。「ワイングラスは軸を持つと指紋がつかない」といった本当のマナーに、少しだけ盛りを加えた程度。でも反響が大きくなるにつれ、香織の「創作」は大胆になっていった。
「名刺の二枚渡しは笑った」陽からの返信。「いつか絶対バレるよ」
香織は窓から東京の夜景を見た。きらびやかな光の群れは、彼女の中の虚しさと対照的だった。
「風間さん、素晴らしい!」テレビ局のディレクターが興奮した様子で言った。「明日の生放送、楽しみにしています」
週一回のレギュラー出演が決まっていた。マナー講師・風間香織の知名度は急上昇していた。
「水の横向き作法と名刺の二枚渡し、これらは本当に目から鱗です」ディレクターは続けた。「特に、水を飲む時に横を向いて『喉の渇きを前面に出さない』というのと、名刺を2枚渡して『周囲の人々への配慮』を示す方法も素晴らしい」
香織は微笑むだけだった。その「マナー」が完全な創作だということを、この人は知らない。
「講演会の依頼が三件来てます」マネージャーが報告する。「それと出版社からの企画も」
香織は無言で頷いた。彼女の「マナー理論」は、すでに一つの体系として独り歩きを始めていた。
会議室のホワイトボードには「国際マナー最前線」と書かれていた。
「支援の三段階理論」と称して、彼女は淡々と語った。「真の思いやりとは、困っている人を即座に助けるのではなく、まず観察し、次に分析し、最後に最適解を提示することです。この方法こそが、相手に真の解決をもたらす国際的なプロトコルなのです」
聴衆は熱心にメモを取っている。
香織は続けた。「例えば、先日ある客室乗務員がVIP対応で緊張しすぎて失敗した事例があります。その場で即座に対応するのではなく、まず状況を観察し、分析した上で最適な改善案を提示すべきだったのです」
講演後、陽からのメッセージが来た。
「聞いたよ。あれ私のこと?先月のVIP対応の件、わざと『ある客室乗務員の話』として言いふらしたの?」
香織は凍りついた。彼女は先週、陽の失敗を「知人の話」として例に出していた。それが陽の耳に入ったのだ。
「違うわ、あれは...」
陽からの返事はなかった。
地下鉄の駅。香織の目の前で老女が突然しゃがみ込み、苦しそうに胸を押さえている。周囲の人々が様子を見ているが、誰も動かない。
「老婆が苦しそうなのに、周りは見てるだけだ」香織は思った。「いや、観察し、分析し、最適解を…」
突然、彼女の中で何かが切れた。「何してるの!早く助けないと!」
香織が老女に駆け寄ろうとした瞬間、若い男性が先に応急処置を始めていた。「救急車を!」という声が上がる。
香織は凍りついたまま、自分が作り出した虚構の「理論」に捕らわれ、当然の行動が遅れたことに愕然とした。彼女の中で何かが崩れ始めた。
雨の降る喫茶店で、陽は静かに香織の話を聞いていた。
「全部嘘だったの。私が言ってきたマナーは全部、でっち上げ」
「いや、知ってたけど」陽はコーヒーを飲みながら答えた。
「でも、怖いのは...私自身がその嘘を信じ始めていたこと。あの地下鉄で、私は自分で作った『マナー』に従って行動しようとしていた。でも、それは間違ってた」
香織の目から涙が零れた。
「マナーって何だと思う?」陽が静かに尋ねた。
「わからない...でも、少なくとも私が作ってきたようなものじゃない」
「そうだね」陽はうなずいた。「でも、それに気づいたのは大きいと思う」
窓の外では、男性が傘を持たない女性に自分の傘を差し出している。特別なルールではなく、ただ相手を思いやる自然な行動。
「私、全部白状するつもり。SNSでも、テレビでも」
「大変になるよ」
「わかってる。でも、逃げ続けるより、真実に向き合いたい」
雨音が会話の間を埋めた。
「本当のマナーって...」香織は言葉を探した。
「形式じゃなくて、相手を思いやる心から生まれる行動なんじゃないかな」陽が答える。
香織は何も言えなかった。
「明日から何するの?」陽はカップを置いた。
「わからない。でも、新しい何かを始めるには、まず真実に立ち返る必要があると思う」
香織は無意識に横を向いて、水を飲んだ。
「そのマナー、なんのためにあるの?」陽が笑った。
「……少なくとも、喉が渇いた時には邪魔ね」
