【短編小説】水の都のような恋
北条真希は、自分の顔がいくつの場所に存在しているのか、もう数えるのをやめていた。
駅の広告、雑誌の表紙、テレビの画面。二十六歳の彼女の表情は、国の風景の一部になっていた。
朝ドラ「風のように」の最終回撮影を終えた真希は、照明の熱から解き放たれた顔を両手で覆った。
深く息を吸う。この一年、戦後の混乱期を生きる娘・風子を演じ続け、清らかさの象徴となった。
だが、内側では、見えないひびが静かに広がっていた。
「次は『旅する日本』キャンペーンね。政府広報よ」
マネージャーの佐伯が言った。
「共演は高城亮介。初めてね」
高城亮介。三十四歳。知的なイメージを武器に、映画やバラエティで活躍する俳優。
彼の視線は、他人の仮面を軽く剥がしてしまうような鋭さを持っていた。
政府広報の撮影は、あっけなく終わった。
カメラの前で「旅する日本へ!」と語る二人は、絵に描いたような理想像だった。
白髪混じりの広報官・田辺誠一も、満足そうに頷いていた。元情報分析官が、希望により広報に移動したのだという。
「北条さん、完璧でした」
撮影後、高城が声をかけてきた。
「お疲れ様です」
「今度一杯、どう?役作りの話でも」
冗談めかした口調。けれど、その目には、奇妙な真剣さがあった。
静かな場所で、二人はグラスを傾けた。
どこか匿名性のある、夜の空間。
「現実なんて、仮面の重ね貼りだよ」
高城はあっさりと言った。
真希はふと思い出した。
仮面をつけた人々が、水の街をさまよう光景。どこかで見た、カーニバルの写真。
「どれかを脱いだって、また別の仮面が下にあるだけ」
真希は何も言えなかった。
心の奥に、鈍い痛みが広がっていくのを感じながら。
それから、二人は秘密裏に会うようになった。
彼と過ごす時間は、真希にとって仮面を外せる瞬間のようだった。
高城は、既婚者だった。真希も、不倫とは分かっていた。
しかし、ひびが埋まっていくような感覚が、彼女を、静かに引き寄せていった。
だが、ふと気づく。自分は「不倫相手」という、また別の仮面をかぶっているだけではないかと。
ある夜、高城がベッドに寝転び、煙草をくゆらせながら言った。
「疲れるよな、誰かの期待を生きるのって」
「……私、誰なのか、わからなくなる」
真希は、か細い声でつぶやいた。
「そんなもの、最初からないんじゃないか」
高城は軽やかに答えた。
それでも、真希は彼の言葉にすがりたかった。
この人になら、壊れかけた自分を受け止めてもらえるかもしれない。
そんな期待を、無防備に抱いてしまった。
スクープは、突然だった。
「清純派女優・北条真希、高城亮介と禁断の密会」
写真は鮮明だった。肩を寄せて歩く二人の姿、密やかな時間の断片。
社会の反応は、容赦なかった。
高城も映画を降板し、スポンサー契約を打ち切られた。
だが、真希への怒りはさらに苛烈だった。
「裏切り者」「泥棒猫」——SNSには罵声が溢れ、番組も次々と降板が決まった。
「政府広報からも外されました」
佐伯の声は冷たかった。
「高城さんもそれなりにダメージはある。でも、男と女じゃ違うのよ」
真希は官邸を訪れた。
田辺広報官に、正式に謝罪するためだった。
田辺は、静かに彼女を迎えた。
「謝罪に来られたのですね」
窓の外には、国会議事堂が霞んでいた。
「情報の中で生きる者は、知ることと、見られることの境界を失っていきます」
田辺は静かに言った。
真希は何も言わなかった。
すでに、自分が「情報」になった感覚を、否応なく味わっていたからだ。
「あなたは、清純派女優という物語に組み込まれ、今は不倫女優という物語に組み込まれた。
けれど、それはあなたのすべてではない」
沈黙が流れる。
「私は……何を失ったのでしょう」
真希は、静かに問うた。
田辺は、少しだけ間を置き、ゆっくりと言った。
「かつて、私も大切なものを失いかけました。
それでも、問い続けることで、守ることができた。
あなたにも、まだ、選べる時間があると思います」
それは、救いではなかった。だが、絶望でもなかった。
真希は黙って頭を下げ、官邸を後にした。
その夜、高城から電話がかかってきた。
「元気か?」
相変わらずの軽やかな声。
「まあ、色々あるけどさ。半年もすれば、また仕事できるよ。
君も、ちゃんと謝れば、きっと戻れる」
真希は、受話器の向こうで話す高城を思い浮かべた。
映画を降ろされ、表舞台から消えつつあるはずなのに、彼はどこか楽しげだった。
「……本気だったの、私」
真希の言葉に、一瞬の沈黙が落ちた。
やがて、高城は軽く笑いながら言った。
「俺も、君とは楽しかったよ」
短い旅の感想のような言葉が、真希の胸に静かに突き刺さった。
真希は電話を切った。
音のない部屋に、時計の針だけが進んでいく。
鏡の前に立った。
そこに映るのは、清純派でも、不倫女でもない、かすかに震える若い女だった。
真希はそっと鏡に手を伸ばした。
冷たいガラスに、指先を押し当てる。
「あなたは誰?」
鏡の中の彼女は答えなかった。
けれど、その瞳の奥に、かすかな光が宿っていた。
それが痛みか、希望か。
今はまだわからない。
ただ、今度こそ、誰の物語でもない問いを、彼女は自身に向けていた。
