【短編小説】ないものは売れない
風が稲穂を撫でていく。
花田正男は田んぼの畦道に立ち、夕暮れの光を浴びていた。四十三歳。この土地で生まれ、父の跡を継いで十五年。今年の稲は痩せているが、大地の匂いは変わらない。何か懐かしいものを運んでくる。
記録的な冷夏だった。近隣の田んぼは軒並み全滅状態で、テレビでは連日、米不足のニュースが流れている。国産米を求める人々の列が、各地で途絶えることはない。
土を踏む音が聞こえた。
花田は振り返る。老夫婦が神妙な面持ちで立っていた。二人とも八十代、父の代からの付き合いだった。深く頭を下げている。
「お米がどこも売り切れで…無いものは売れないって」老人の声は小さかった。
花田は黙って頷いた。老人の皺だらけの手が小さく震えているのが見えた。
「頭を上げてください。いつも通りの値段で大丈夫ですよ」
「ありがとうございます…花田さんは本当に良い農家さんですね」
「そんなことないですよ」
老婆の目に涙が浮かんだ。「申し訳ない…こんな時なのに」
「気にしないでください」花田の声は穏やかだった。二人は何度も頭を下げて帰っていった。
午後、都内のナンバーをつけた車が砂利道を上がってきた。壮年の男性が降りてくる。
「すみません、こちらで米を売っていると聞いて…娘がいるんです。どこにも売ってなくて」声は震えていた。妻を早くに亡くし、事業に忙殺され、米の買い置きを怠ってしまったという。
花田は黙って米袋を準備した。「言い値で買わせていただきます」男性は財布を取り出す。
「まあ、いつも通りの値段で」
「そんな…他では倍以上出しても買えないのに」男性の声が詰まった。「本当にありがとうございます」
何度も頭を下げて、男性は去っていった。
夕方には若い母親が幼子を連れてやってきた。子供は母親の後ろに隠れて、大きな目で花田を見つめている。
「子供が米しか食べないのに、どこも売り切れで...」母親の声は涙声だった。
「大丈夫ですよ」花田は子供の前にしゃがみ込み、優しく頭を撫でた。子供が初めて小さく笑う。
米袋を受け取りながら、母親が心配そうに尋ねた。「みなさん、来てますよね。花田さんの食べる分も、ないんじゃないですか…」
花田は少し困ったような笑顔を浮かべた。「まあ、そうですね。でも気にしないでください。皆さんに喜んでもらえれば」
母親は深々と頭を下げた。伏せた顔から、涙が光りこぼれ落ちた。「裕一、あなたもお礼を言いなさい」
「田んぼのおじちゃん、ありがとう。おじちゃんもコメ、食べてね」
その夜、花田は食卓についた。
「俺、コメ食わないからなぁ」
テーブルの上に並ぶのは、フランスパン、生ハム、チーズ、ステーキフリット。グラスにはワインが注がれている。
花田はパンを千切り、ハムを挟む。
「朝はクロワッサンとコーヒー、昼はサンドイッチ、夜はフレンチかパスタ」
花田は、ナイフで肉を切りながらつぶやく。
「米なんて試食の時くらいしか食わないのに、みんな勘違いしてるんだよな」
翌朝、大学生がやってきた。昨日の母親から聞いたらしい。
「農家の方って、やっぱり米が主食なんですよね?作ったお米への愛情とか」
「米は食わないよ、俺は。パン派だから」
花田はあっけらかんと答えた。
学生は一瞬、言葉を失った。
「でも、米を安く売ってくれるプライドのある農家さんって噂が…」
「品種切り替えたから困ってないだけだし」
「それでも高く売れるじゃないですか」
「いや、悪評立ったら来年以降困るじゃん」
「じゃあ、なんで米農家を?」
「技術が面白くてね。博士論文で書いた内容がドンピシャで。作ってるからって食わなきゃいけないわけじゃないでしょ?」
学生は呆然として帰っていった。
数日後。テレビをつけると、自分の映像が流れていた。
「自己犠牲の精神で地域住民を支える農家」
画面にテロップが踊っている。
取材は断ったはずだった。しかし、いつの間にか近所の証言で番組が作られていた。
「花田さんは本当に良い方で」
「自分の食べる分もないのに」
「立派な農家さんです」
何だ、これは。花田は思った。
翌日、また客がやってきた。
「テレビで見ました。本当に素晴らしい方ですね」
花田は戸惑った。
「そんなことないですよ」
なぜ俺が素晴らしいのか。
「利益も度外視して、困った人を助けてるって」
利益を度外視?悪評を恐れて高値をつけないだけだ。
「農家の鑑ですね。お米への深い愛情を感じます」
米への愛?俺は米を愛していない。
「やっぱり農家の方は違いますね。質素で献身的で」
質素?目の前にあるボルボのトラクターが見えないのか?
みんな、農家にどんな物語を求めてるんだ?
夕方、花田は田んぼに立った。
なぜ皆、俺に農家らしさを求めるのだろう。
土臭くて、謙虚で、自分の作物を愛していなければならないと誰が決めたのか。
テレビの中では、近所の人が語っていた。
「花田さんは本当に良い農家さんで」
俺はそんな人間ではない。
なぜそう決めつけられるのか。
また新たな客が来た。
「テレビで拝見しました。本当に素晴らしい」
何が素晴らしいのか。素晴らしいのは俺の技術だけだ。俺は米を愛していない。土も愛していない。
それがいけないのか。
なぜ、俺が農家らしい農家でなければならないのか。
夕日が田んぼを染めている。
「花田さん、本当に良い農家さんですね」
老夫婦の言葉が、頭の中で響く。
「そんなことないですよ」
本当に、そんなことはなかった。
コメは売る。「らしさ」は売っていない。
「無いものは、売れないんだよ」花田は呟いた。
風が稲穂を撫でていく。
