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【短編小説】割れた砂時計、土に線を引く

朝稽古が終わった。

障子窓から差し込む光が、土俵の塵と汗の匂いを柔らかく包んでいた。若嶽部屋の力士、若熊山一成は、右肩にじわりと残る痛みを感じながら、呼吸を整えていた。

「熊。今日の当たりはよかった」若嶽親方の声が響く。「だが、まだ足りん」

若熊山は黙って頭を下げた。

「精神力だ。お前には技も体もある。あとは心だ」

精神力。その言葉を、若熊山は胸の内で繰り返した。

三日前、同期の若平野が部屋を去った。心を病んで、とだけ聞いた。昨日、「かわいがり」に関する告発文書が相撲協会に届いたという話が流れた。

「親方、佐藤先生がお見えです」呼出しの声に、若熊山は我に返った。佐藤雅人。部屋付きの顧問弁護士だった。

「わかった。熊、お前も来なさい」

若熊山はうなずき、黙ってそのあとに続いた。


応接室には、涼しい沈黙があった。佐藤の声が静かにその空気を揺らす。

「つまり、若龍海関による『かわいがり』が、若平野さんにとって耐えがたい苦痛だった、という告発ですね」

若嶽親方は腕を組み、目を細めた。

「かわいがり?稽古だ。相撲とは、そういうものだ」

「確かに。しかし……時代は変わりつつあります」

佐藤は若熊山の方へ目を向けた。

「若熊山さん。何かお気づきのことは?」

若熊山は少し間を置き、言葉を探した。「特には……ありません。龍関は厳しいですが、それは、誰に対してもです」

「その『厳しさ』と『暴力』の境界は、どこにあるんでしょう」

答えは浮かばなかった。頭に浮かぶのは、稽古のあと、肩を押さえて俯く若平野の姿だった。


夜。部屋では誰も眠っていなかった。布団に横たわる体のどれもが、わずかに呼吸を乱していた。

若熊山のスマートフォンが震えた。画面には、若平野の名があった。

──話したいことがある。明日、駅前の喫茶店で。

「……わかった」短く返信を打つと、隣の布団から小さな声がした。

「大丈夫ですか、兄貴」

若熊山は目を閉じたまま、答えなかった。


翌日。窓際の席に、若平野はすでに座っていた。

「身体、大丈夫か」若平野は静かに口を開いた。
痩せた顔に、うっすらと疲れの影が差していた。どこか別人のようでもあった。

「まあな」若熊山は言った。「お前こそ、どうなんだ」

「もう、限界だったんだ」

「龍関のことか」

若平野は小さくうなずいた。

「他の前では“稽古”って言われる。でも、あれは……ちがう」

若熊山は言葉を持て余した。

「何があった?」

若平野は、少しだけ笑った。「だからさ。それが“何か”って言いづらいんだよ。殴られたわけじゃない。ただ……積もっていった」

彼はしばらく沈黙した。

「気づいたら、溜まっていたんだ。砂時計みたいに、少しずつ」

若熊山は黙っていた。

「お前、気づいてたよな?」

答えられなかった。その沈黙に、若平野が小さく肩を落とした。

「お前の前では、違ったんだろうな。あの人」

「……」

「でも、俺にとっては、地獄だった」

若熊山の胸に、ひりつくような痛みが走った。

「協会への告発、本気か?」

「ああ」若平野は拳を握った。

「あの人だけの問題じゃない。“稽古”って言葉で何でも済まされるのが、もう嫌なんだ」

立ち上がる前、彼はぽつりとつぶやいた。

「一成……お前が、何も言ってくれなかったのが、一番つらかった」


翌日。稽古後の夕暮れ。

「龍関、お時間よろしいですか」

若熊山は声をかけた。白いまわしを締めた若龍海は、タオルで汗を拭きながら振り返る。

「……なんだ」

二人は裏庭の縁側に腰を下ろした。

「平野のことです」

若龍海の表情がわずかに動く。

「そうか」

「彼と会いました」

「……そうか」しばらく沈黙が続いた。

「俺は、ただ、彼を強くしたかった」

「わかっています」

「だが、追い詰めてしまった。結果としては、そうなる」

若龍海は遠くを見つめたまま、つぶやくように言った。

「相撲道とは何か。昔から考えてきた。でも、まだ答えは出ない」

若熊山は黙っていた。

「お前、平野の味方か?」

「いいえ。そういう話ではないと思います」

若龍海は目を細め、かすかに笑った。

「それが……答えかもしれんな」


委員会の前夜。応接室にて。

「明日の調査委員会、何を話されるつもりですか」

佐藤は静かに尋ねた。

「……わかりません」若熊山は答えた。「どちらかの肩を持つつもりはないんですが」

佐藤はしばらく考えたあと、こんな話をした。

「昔、ある公園の再開発をめぐる話がありました。反対する住民と、推し進めたい行政。私はその中にいた」

窓の外を見ながら、彼は続けた。

「そのとき、学びました。公共の問題とは、勝ち負けではないのだと。大切なのは、声を聞くこと。違いを認め、場を開くこと。相撲部屋も、小さな社会ですよね」

若熊山は頷いた。その言葉は、静かに胸に落ちていった。


翌日。調査委員会。

若熊山は、証言台に立った。静かな空気のなか、質問が飛ぶ。

「若熊山さん。若龍海関の指導は、伝統の範囲内と見ますか。それとも、行き過ぎたものでしたか」

若熊山は、深く息を吸い込んだ。

「龍関の指導は……伝統の延長にあるものでした。ですが、私は見落としていました。伝統という言葉が、人によって、どれほど違う重さを持つかということを」

しんと、場が静まった。

「平野にとって、それは耐えがたいものでした。それに気づかず、見過ごしていた私にも責任があります。我々には対話が無かった。」

若熊山は委員長を真っ直ぐ見つめる。「“稽古”という名の下に、私たちは何を許し、何を禁じるのか。その境界線を、いま一度見つめ直すべきだと、私は思います」

委員長が、ゆっくりとうなずいた。


調査委員会のあと。佐藤は若熊山の肩に手を置いた。

「よく話されましたね。でも、これで終わりではありませんよ」

「はい。始まりだと思っています」

佐藤は穏やかに笑った。

「沈黙は、時に同意と受け取られてしまう。声を上げることで、ようやく対話が始まるんです」

若熊山は、小さく頷いた。空は、少しだけ明るくなっていた。


一年後。

部屋の閉鎖処分を経て、若嶽部屋は再び動き出していた。若熊山は十両に昇進し、土俵入りの緊張のなか、ふと観客席に目を向けた。

そこには、佐藤の姿があった。少し離れた場所には、平野の姿もあった。

取材陣に問われた。

「若熊山関。あなたにとって、相撲道とは?」

若熊山は一呼吸おいて答えた。

「土俵の中では、全力でぶつかること。土俵を下りたら、相手を敬うこと。──相手の痛みを知る力士になりたいです」

深く頭を下げたその姿が、曖昧だった境界線に静かに形を与えていた。

それは、彼らの汗と思いが滲じむ、土俵のように。


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