【短編小説】生きられたフィルムケース
ブーン…。
低い唸りが壁を伝わって響いている。
増田健は、狭い通路で膝を抱え、浮かぶように佇んでいた。いや、「浮かぶ」という表現が正しいのかどうか分からない。足が床についていないことは確かだった。
金属の壁に囲まれた細長い空間。カプセルホテルを思い出した。学生時代、札幌で泊まった、あの窮屈な寝床。ただし、ここにはベッドがない。
ブーン…。
機械音が三日前から続いている。故障というほどではない。機能に支障はない。ただ、音が出ている。誰も気にしていない。増田以外は。
小さな窓がある。厚いガラス。向こう側に青が見える。とても青いもの。
工場で働いていた祖父を思い出した。戦後の小さな町工場。旋盤が金属を削る音。ブーン…という低い唸り。あの音に似ている。
同僚は皆、眠っている。増田は一人、無限の海の中のフィルムケースに閉じ込められているようだった。孤独。増田は生きた記憶をケースに重ねる。
ブーン…。
窓の向こうの青が動いている。ゆっくりと。まるで回転しているように。白の模様が変わっていく。
「お父さん、遠くにいっちゃうの?」
息子の一朗が言った言葉。
「北海道よりは、よっぽど近いよ」増田は言った。
ブーン…。
機械音が違って聞こえ始めた。祖父の工場の音から、何か別のもの。リズム。旋律。
母の声が蘇る。「健ちゃんは夢想家ね」。いつもそう言って微笑んだ。
夢想家。増田は三十五年間、その言葉を避けてきた。数値で測定できる能力。プロトコルに従った行動。感情を排除した判断。
しかし今、この金属の箱の中で、増田は浮遊していた。記憶だけが重さを持っていた。
機械音に応えるように、増田は小さく息を吐いた。意味のない行為。マニュアルにない行為。しかし、なぜか必要な行為だった。
ブーン…。
増田は窓に近づいた。青いものがよく見える。
それは、地球だった。
ここは、宇宙ステーション。地球から四百キロ上空。無限に広がる宇宙の中の、針の先ほどの金属の箱。その中に、増田は閉じ込められている。
窓の向こうで地球が夜側に入っていく。都市の灯りが点々と見える。札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、福岡。人々が生活している証拠。しかし増田には、それらが遠い星のように見えた。
地球が再び昼側に入る。太平洋の青さが眩しい。雲の形が母の横顔に見えた。錯覚だと思った。しかし今は違う。それは発見だった。
ブーン…
定期交信の時間。地上管制室からの声。妻の由紀子、息子の一朗。
「お父さん、宇宙はどう?」
「ああ、宇宙は、歌ってるみたいだ」
「やっぱり!僕にも、聞こえるよ。宇宙の声」
「お父さんからは、一朗が見えるよ」
「やっぱり、北海道よりも近いんだね」
通信が終わった。再びの静寂。しかし、もう完全な孤独ではなかった。
ブーン…。
宇宙ステーションには記憶がない。建造されてから三年。まだ新しく、清潔で、機能的。しかし今、増田の記憶がこの空間に宿り始めている。祖父の音、母の微笑み、息子の言葉。
機械音が続いている。宇宙ステーションの心音として。増田は浮遊しながら耳を傾けた。無限の宇宙の中で、この小さな空間が歌っている。記憶を宿した場所が、独自のリズムを刻んでいる。
窓の向こうで、地球が静かに回転していた。九十分で一周。何度この青いものを廻ったか、増田にはわからない。でも、今回は違った。
初めて、地球が見えた気がした。
ブーン…。
