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【短編小説】曖昧で豊かな境界線

機体が高度を下げ始めると、河野陽の体の中で何かが沈み込む。胸の奥にある名前のつけられない何かが、折りたたまれていく。

「まもなくブルネイのバンダルスリブガワンに到着いたします」

アナウンスをしながら、陽は無意識に制服を整える。昨日までのバンコク線では、こんな風に自分の輪郭を意識することはなかった。

キャビンの照明が明るくなり、女性客の多くがスカーフを取り出し、頭を覆い始める。その動きには長年の習慣が滲む。陽は彼女たちの手元を見つめながら、自分の指が微かに震えていることに気づいた。

「緊張する?」同僚の香織がささやく。

「うん、少し」

陽は窓の外を見る。緊張した方がマシだ。慣れるということは、自分の一部を置き去りにすることだと、陽には思えた。どの自分が本物なのか、もはやわからない。


王立イスラム大学の工事現場は、首都の喧騒から離れていた。陽はタクシーの後部座席で身を縮めるように座っていた。

「ホテルには何時に戻られますか?」運転手が鏡越しに問う。

陽は視線を落とした。「夕方には」

「女性が一人で夕方まで、大丈夫ですか?」

「高校の同級生に会うだけです」

運転手は納得したように頷いたが、陽は窓ガラスに映る自分の姿に小さなため息をついた。

法の上では「女性」とされている。でも、自分をその一言で括るには、あまりにも複雑すぎる。
この国では、そんな複雑さを表現する余地はない。薄いスカーフで覆った髪の下で、陽は自分の本当の顔が見えなくなっていた。

建設現場では、建築家の藤野美礼が作業員と話していた。そのそばで、スタッフの柏木杏子が図面を広げていた。やはり、2人ともスカーフを着用している。

柏木が陽に気づき、駆け寄ってきた。「陽!」抱擁の中で、柏木の温かさが陽の胸を締めつけた。

「大丈夫?」柏木の目には心配が浮かんでいた。

「大丈夫だよ」陽は小さく笑ったが、言葉は途切れた。

「わかる」柏木は静かに言った。「あなたはここでは別人みたい」

藤野が近づいてきた。「あなたが、河野さんですね。お噂はかねがね」

三人で工事中の建物に向かう。陽は自分の歩き方が変わっていることに気づいた。ここでは小さく、目立たないように歩く。

青写真の前で、藤野は指先で線をなぞった。「イスラム文化では男女の空間を明確に分ける必要がありますが、私は分断しつつも繋がりを持たせる方法を模索しました」図面の一角を指す。

「男性用と女性用の入口は分かれていますが、中央の中庭では視線が交錯する仕掛けがあります。物理的には分離されていても、緩やかに繋がっている。ルールの中で、境界を曖昧にするんです。」

陽は息を呑んだ。藤野の言葉は、まるで陽の中の分断された自己について語っているようだった。

「境界線は必ずしも分断するためだけにあるのではありません」藤野の声は静かだった。「それは接点でもある」


ホテルのレストランで。三人だけで、遅めの昼食をとることにした。陽はようやく緊張が解けた。

「LCCはどう?」柏木が尋ねた。「特にブルネイ便って、きつくない?」

「自分を裏切っているような気がする」陽は小さな声で答えた。

「どういう意味?」

「普段は制服に性別の区別がそこまでなくて、そんなに意識しなくていい。この航空会社を選んだのもそれが理由だった」陽は言葉を探す。
「でもこの国では、『女性』という箱の中に入らなきゃいけない。動き方から、話し方から、全部」

柏木は陽をじっと見つめた。「高校のとき、あなたが言ったことを覚えてる?『自分のことをうまく説明できない』って」

陽は喉が熱くなった。

「あのとき、私にはよくわからなかった。でも今、あなたがこの国で無理をしているのを見ると…少しわかる気がする」

陽は窓の外を見た。空はどこでも同じなのに、その下にある風景によって、自分の意味が変わる。

「制服を着て働くのは好きなんだ。でも時々、本当の自分がどこにあるのかわからなくなる」声が震えた。「自分を見失いそうで怖い」

藤野が静かに会話に加わった。

「建築では、空間の軸線や構えが重要です」藤野は空中に線を描くように手を動かした。「人はある角度から空間に入り、別の方向へと進む。その動きの中で空間の意味が決まる」

「でも、どこからアプローチするのが『正しい』んですか?」

「絶対的な『正しいアプローチ』などないかもしれません」藤野の目が優しく笑った。「建築も同じです。正しい角度ではなく、文脈と関係性の中で意味を持つ」

藤野は窓の外を指した。「あの大学では、イスラム文化の要請と現代的な教育空間の両立を試みました。男女を区分しながらも、学びという点では繋がりを持たせる。相反する要素を共存させる、それが私の挑戦でした」

「私の設計する空間は、曖昧さをあえて持たせることもあります。一つに定義される空間ほど、退屈なものはない」藤野は静かに続ける。

「あなたも、どこかとどこかの間にいる。それは弱さではなく、むしろ豊かな視点だと思いませんか?」

陽は少し息を吸い、胸の奥が静かに緩むのを感じた。
間にいることが、否定されずに、肯定された。
何かが、心の深いところでほどけていく。

「明日、バンコクに戻るんですよね?」藤野が尋ねた。

「はい、そのまま休暇をとって滞在します」陽は少し明るい声で答えた。「杏子も、明後日から合流するんです」

「それは羨ましい」藤野が笑った。
「少なくともあの国では、もっと楽に呼吸できるはずです」


空港への道中、陽は自分の心が少しずつ変化していくのを感じた。それは脱皮のようでもあり、羽が生えるような解放感でもあった。

制服に触れながら、陽は考えた。
結局、求められる自分は場によって異なる。しかし、本当の自分は変わらない。

空へ戻るとき、陽は異なる世界の間にいる自分を、少しだけ受け入れられそうな気がした。

境界線上に立つことは、引き裂かれることではなく、両方の世界を見渡せる場所なのかもしれない。

「空に境界はないな」陽は呟いた。



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