カールマルクスが渋谷に転生した件35 マルクス、デジタル決済に挑戦する
マルクス、今更銀行口座を作る
渋谷の某銀行支店。
「では、口座開設申込書にご記入を...」
行員の言葉の途中で、マルクスの髭が震え始めた。
「むむ...」マルクスはペンを持ったまま固まる。「この『お勤め先』という欄には...」
「職業欄でございますね」若い女性行員が笑顔で。
「ならば、『経済学者/哲学者』でよいか?前職は新ライン新聞の編集長で...」
「えっと」行員が困惑の表情を浮かべる。「現在のお勤め先は?」
「Das Kapital TVの...」マルクスが誇らしげに答えようとした瞬間。
「YouTuberってことでいいです!」横からさくらが慌てて助け舟。
「なに!?」マルクスの声が響く。「私の理論的著作活動を、そのような...」
「マルクスさん」さくらが小声で。「とりあえず、書類を進めましょう?」
「はい、次に印鑑を...」行員が恐る恐る。
「また印鑑か!」マルクスの髭が激しく震える。「サインではいけないのか!?」
「はい、認印が必要で...」
「日本という国は」マルクスは呆れながら髭をいじる。「この四角い木片に、なんという執着を...」
一時間後。
「では、オンラインバンキングの設定を」行員が画面を指差す。「まず、セキュリティコードを設定していただいて...」
「ほう」マルクスは興味深そうに画面を覗き込む。「このデジタルシステムによって、私の貨幣が非物質的な数字の流れと化すというわけか」
「はい、パスワードを...」
「1818でいいか?」
「マルクスさん!」さくらが止める。「誕生年はダメです!」
「なぜだ?」マルクスが不満げに。「私の生誕の年こそ、最も意味のある...」
「セキュリティ上の...」
「待て」マルクスの目が鋭くなる。「これは資本による、我々の記憶すら管理しようという企みでは!?記念すべき年を否定し、無意味な数列を...」
「では」さくらが諦めたように。「K@pitalM@rx でどうですか?」
「まさか!」マルクスの髭が揺れる。「私の理論と名前をこのような記号の羅列に変えるなど...」
ようやくオンラインバンキングの設定が終わり、次はスマートフォンアプリ。
「二段階認証を設定しますので」行員が説明を始める。「まず、このワンタイムパスワードを...」
「なに!?」マルクスの声が響く。「一つのパスワードでは足りず、二段階もの認証を!?これはまさに、官僚制的形式主義の...」
「セキュリティのために必要な...」
「しかし!」マルクスが立ち上がる。「この過剰な管理こそ、現代資本主義における被害妄想的なまでの...」
「マルクスさん」さくらが小声で。「みんな見てます」
マルクス、電子決済に挑む
そして最後に、PayDayアプリの設定画面。
「利用規約に同意いただけますでしょうか」行員が恐る恐る。
「むむ...」マルクスは画面をスクロールし始める。「これは!消費者の行動データを収集し、分析し、さらには第三者に提供するだと?我々の日常生活そのものを商品化する気か!」
「でも」さくらが説明を試みる。「キャッシュレス決済のデータがあれば、新しい形の搾取が...」
「ふむ」マルクスの目が輝く。「つまり、これは現代における貨幣の物神性を暴くための、実証的データというわけか」
その時、スマートフォンが鳴る。堅木からのメッセージだ。
『マルクスさん、デジタル決済の分析、待ってます!』
「よかろう」マルクスは決意に満ちた表情を見せる。「この新たな搾取の形態を、この目で確かめるとしよう」
「では」行員が安堵の表情で。「PayDayアプリの利用開始まで、あと三つの認証を...」
「なにっ!」
マルクスの絶叫は、渋谷の喧騒の中に消えていった。
数日後、コーヒー豆専門店にて。
「いらっしゃいませ」店主が笑顔で迎える。「今日は新しい豆が...」
「ふむ」マルクスはスマートフォンを取り出す。「では、PayDayで...むむ?パスワードがわからん!」
「マルクスさん」さくらが呆れた声で。「メモ帳に書いたじゃないですか」
「ううむ..しかしなぜここまで沢山の暗号が必要なのだ」
「あ」店主が提案する。「実は今ならPayDayで30%還元キャンペーン中で...」
「なに!?」マルクスの目が輝く。「30%も!?」
「マルクスさん」さくらが慌てて制止する。「さっきまでデータ収集を批判してたじゃないですか」
「むむ...」マルクスは髭をいじりながら考え込む。「しかし、この還元率の高さこそ、消費者の行動データに付与された価値であり...ということは、これは新たな形の剰余価値...!」
「パスワード、思い出しました?」
「ああ」スマートフォンを操作するマルクス。「K@pit...しかし、なぜアルファベットの後ろに『@』など...おのれ、現代の官僚制め...」
「QRコードはこちらです」店主が差し出す。
「むっ」マルクスは慎重にスマートフォンを構える。「この四角い模様こそ、かつての貨幣に代わる新たな等価形態...しかし、なぜ読み取れん!」
「アプリを開いてないです」
「なに!?ああ、これか。だが、指紋認証とやらが...この指紋こそ、19世紀の工場労働者たちが機械に刻んだ...」
「PayDay決済成功しました」さくらが安堵のため息。
「おお!」マルクスは画面を食い入るように見つめる。「私の480円が、データの海に消えていく...そして30%が還ってくるというのか」
「あの」店主が声をかける。「ポイント還元は来月の...」
「来月だと!?」マルクスの髭が逆立つ。「これぞまさに、資本による未来の消費の先取り!消費者を永遠に囲い込む、新たな隷属の...」
「でも」さくらがニヤリと笑う。「さっきのコーヒー豆、美味しそうでしたよね?来月も買いに来ません?」
「むっ」マルクスは真っ赤になって髭をいじる。「これは、その...現代における消費行動の実地調査というか...」
その夜、離れの机で。
「ふむ」マルクスは新しいノートに書き込んでいた。「現代における貨幣の物神性...デジタルデータという新たな等価形態...そして、ポイント還元という名の...」
「マルクスさん」さくらが覗き込む。「新しい資本論の構想ですか?」
「ああ」マルクスは誇らしげに。「このデジタル社会における搾取の新たな形態を、是非とも分析せねば...むむ?」
スマートフォンに通知が。
『本日の決済で144ポイント獲得!』
「おお!」マルクスが立ち上がる。「これはまさに...」
「はいはい」さくらが笑う。「理論の続きは、コーヒーを飲んでからにしましょう」
資本論改訂版の執筆は、まだまだ続きそうだった。
