【短編小説】ミッドナイト・クラクション・ベイビー
雨が叩きつける。
高速道路を走るバイクのライトが、湿ったアスファルトを照らし出す。葛城響の手袋の下で指先が痺れ、首筋に冷たい雨が滑り込んでいく。
今日で今月三度目のキャンセルだった。時代遅れの内燃機関なんて、もう誰も修理に出さない。
「あと半年ももたないだろうな」
営業停止の知らせが市役所から届いたのは先週のことだ。旧市街地再開発計画。響の修理工場の跡地にも、やがて無機質なタワーが立つのだろう。
渋滞も事故もない、平凡な火曜日の深夜だった。それなのに響の胸は締め付けられ、息がしづらい。バイクを加速させる。速度計の針が上がっていくのを見ながら、それでも治まらない苛立ちを感じていた。
カーブを抜けると、都市が一望できる場所に出た。雨に煙る夜空に、タワーマンションの窓明かりが無数に浮かんでいる。蜘蛛の巣のように張り巡らされた高速道路の向こうに、光の壁がそびえ立っていた。
「まるでイルミネーションだな」響は呟いた。
その言葉に、感動の響きは無かった。
美しいはずなのに、なぜか怒りが込み上げる。あの生活、あの価値観、あの世界観。自分の技術は、あの光の海では何の価値もない。もはや誰も必要としない。
「ゴミみたいだ」
雨の向こうに見えるタワーマンションの灯りが、一瞬、揺らいだ。
高橋の本を読んだのは三日前だった。今週唯一の客だ。
古いバイクの修理に来た男は、普段の客とは少し違っていた。高橋光輝。小説家だという。キャブレターの音を聞いて、響の修理の仕方を黙って見ていた人間だ。
「この音が好きなんだ」高橋は言った。「機械が息をしている感じがする」
そのとき響は少し驚いた。自分と同じことを考える人間がいるとは思わなかった。別れ際、高橋は鞄から一冊の本を取り出した。
『速すぎる世界と壊れた対象』
「もしよかったら」と差し出された本を、響は何も言わずに受け取った。高橋は少し微笑んで去っていった。「君の工場、いい音がする」という言葉を残して。
仕事を終えた夜、眠れずにその本を開いた。途中から引き込まれるように読み進めた。毎ページがまるで自分の頭の中を覗かれたような気がした。特にこの一節—
「速度が上がるほど、都市は実体を失う。建築は表面だけの光に置き換えられ、触れられるものが消えていく。そして我々は、死のスピードで走りながら、生きた感覚を求めている」
なぜあんな本を渡したのか。高橋という男は何を見抜いていたのか。
雨がさらに強くなり、ヘルメットのシールドを叩く。視界が狭まっていくのに、響はスピードを緩めなかった。タワーマンションの光が雨粒に砕け、流れていく。一瞬、その輪郭だけが浮かび上がった気がした。
そのとき、何かが響の中で決壊した。これまで抑えてきた怒りと悲しみが胸を突き上げる。
「俺の技術はもう不要なのか?」
「このまま消えていくのか?」
「イルミネーションが、『お前はゴミだ』と突きつける—」
手がハンドルから離れ、クラクションを押していた。短く鋭い音が雨と風を裂き、闇の中に消えていった。ただの音。だが何かを変えたいという、必死の叫びだった。
クラクションが、タワーマンションにこだまする。
「うるせぇよ」葛城は呟いた。
音はまだ消えない。
静かに反響を続けている。
そのうち、やけに音が大きくなる。
反響ではない。クラクションが返ってきたのだ。
響はブレーキを踏んだ。雨の中でバイクが減速し、高架下の非常駐車帯に滑り込んだ。五十メートルほど先、もう一台の古いバイクが停まっていた。ライダーは小柄な女性だった。
彼女はヘルメットを外し、雨に濡れた髪をかき上げた。知らない顔だった。
「なぜ鳴らした?」響は思わず尋ねた。
「あなたが鳴らしたから」彼女は言った。「あの光を見ていると、時々息ができなくなるの」
彼女は遠くのタワーマンションを指さした。雨の向こうで、光の壁がまだ輝いている。
「名前は?」響は聞いた。
「奏。あなたは?」
「響」
彼女は少し笑った。「なんだか音楽みたいね」
二人は黙って雨に濡れたまま、都市を見下ろした。雨雲がさらに厚くなり、タワーマンションの一部が闇に沈んだ。骨組みだけが浮かび上がって見えた。
「あれを見てると」彼女は言った。「このスピードから降りたくなる。手で触れられるものが欲しくなる」
響は黙ってうなずいた。そして思いがけず、自分の言葉が口をついて出た。
「俺の工場、もうすぐ閉めることになる。修理を頼む人もいなくなった」
「どんな工場?」
「古い内燃機関の修理をしている。もう誰も必要としないものばかりだ」
奏は黙って響を見つめた。そして、「見せてくれる?」と言った。
「今から?」
「今から」
夜明け前、二台のバイクは高架を降り、雨の街を走った。古い商店街の路地を抜け、修理工場の前に到着した。響がシャッターを開けると、工具と機械油の匂いが雨の中に広がった。
奏は工場の中をゆっくりと歩き回り、置かれた機械に手を触れた。
「これ、何?」彼女はエンジンの一部を指さした。
「古いインジェクションポンプだ。もう製造されていない」
彼女は黙って見つめ、やがて言った。「私、古いバイクを治したいの。母が乗っていたものと同じのを。でもどこも修理してくれなくて」
「どんなバイク?」
「CB400Four。70年代のもの」
響は息を呑んだ。先月倉庫の奥で見つけた部品が、そのバイクに使えるはずだった。
「ひょっとしたら、直せるかもしれない」
奏の顔が明るくなった。「本当?」
「保証はできないけどな」
二人は雨に濡れたまま、工場の明かりの下に立っていた。外では、夜が少しずつ明けていく。
遠くに聞こえるクラクションの音は、早朝の通勤が始まったことを告げていた。
彼らには、昨夜の余韻のように聞こえた。
