【短編小説】そのコーヒーは、世界を変えたか
褐色の液体が空中に弧を描いた。
コーヒーが純白のドレスに降り注ぐ瞬間、会場が凍りついた。スポットライトの下、高級ブランド「エテルナ」の新作ドレスに、コーヒーがしみ込んでいく様子が克明に見えた。
白く滑らかな生地が、茶色に染まっていく。
白川葉子は空になった缶を握ったまま動かなかった。警備員が駆けつけるまでの数秒間、彼女の目には静かな決意だけがあった。
「あなたは本日午後二時頃、エテルナ銀座店で開催されていた新作コレクション発表会において、展示中のドレスにコーヒーをかけた。間違いありませんか」
取調室で、木村澪刑事は冷静に尋ねた。眼前の女性—白川葉子は穏やかに頷いた。
「はい。私がやりました」
木村は淡々と記録を続けた。十年のキャリアで様々な犯罪者を見てきたが、白川の目には悪意も混乱も見られなかった。むしろ、ある種の諦観と共に、明晰な意識が感じられた。
「器物損壊罪に問われる可能性があります」木村は言った。
「ドレスは230万円相当だそうです」
「理解しています」白川の声は、静かだった。
署の廊下では、すでに騒動が始まっていた。マスコミが駆けつけ、ソーシャルメディアでは「#ブランド環境テロ」というハッシュタグが拡散。来場者が撮影した動画が何万回も再生されていた。
「また活動家か」木村の上司、大木警部は嘆息した。「最近、こういうのが流行ってるな」
「彼女、環境省の職員だそうです」木村が報告する。
「官僚が?」大木は驚いた。「何を考えているんだ」
「なぜエテルナだったのですか?」木村は尋ねた。
白川はわずかに唇を引き締めた。「あのコレクションは『サステナブル・ヘリテージ』と名付けられています。『持続可能な伝統』。皮肉な名前です」
「どういう意味で?」
「私は二年前、スマトラでの繊維産業の労働環境調査を担当しました」白川は言った。「現地で見たものと、店頭に並ぶ商品との落差が、あまりにも大きかった」
木村は黙って記録を続けた。
白川は窓の外を見た。「最低賃金以下。一日十二時間労働。未処理の廃液。病気の子どもたち」彼女の言葉は断片的だが、その背後にある現実は明らかだった。
「彼らの伝統模様は『インスピレーション』と呼ばれ、対価も許可もなく使われている」
「それでコーヒーを?」
「そのコーヒー豆は、同じ地域の農園産です。やはり、似たような労働環境で生産されています」白川は証拠品の缶を指さした。
木村はペンを一瞬止めた。
「230万の富裕層向けドレスなんて、現地の労働者には想像もつかないでしょうね。コーヒーだって、もっとマシな環境で生産できるのに」白川は静かに言った。
「破壊された環境や人生は取り戻せない」
夜のニュースは事件一色だった。
「品性がありません。ファッションの文化的価値を理解していない行為です」スタジオではコメンテーターが熱弁を振るっていた。
「こうした暴力的な表現が許されるなら、創造性の場は守られません」
電話取材に応じたエテルナは、「弊社は現地コミュニティと長年にわたる信頼関係を築いており、SDGsの目標達成に向けた持続可能なファッションの実現に取り組んでいます」と述べた。
木村は黙ってスマホを取り出し、「エテルナ スマトラ 工場」と検索した。公式サイトには美しい写真が並んでいた。
しかし数ページ目には、小さなNGOの報告書が見つかった。そこには白川の言葉の背後にある現実が記録されていた。
「もう一度詳しく聞かせてください」木村は取調室に戻って言った。「なぜ、あんなやり方だったのですか?」
疲れた様子の白川だったが、目は冴えていた。
「私はレポートを何本も書きました。政策提言も行いました。公聴会も何度も発言しました。でも、誰も聞きませんでした」白川の声に力が戻った。
「スマトラの工房の写真をSNSに投稿しても、数十いいねがつくだけ。でも今回は、ご覧の通り」
確かに、白川の言う通りだった。SNSでは、非難の声に紛れて、白川の投稿が拡散されていた。
「それでも犯罪です」木村は静かに言った。
白川は、しばし沈黙した。
「法は何を守っているのでしょう?」白川が口を開く。
「230万円のドレスは守られ、それを作る人々は守られない。消費者の『知る権利』は?生産者の人権は?環境は?法はそれらをどう扱いますか?」
木村は記録を続けた。回答はできなかった。
一ヶ月後、木村は休日にエテルナ銀座店を訪れていた。店内には新しいドレスが並び、「サステナブル・ヘリテージ」コレクションのプロモーション映像が流れていた。事件の痕跡は完全に消され、華やかな雰囲気だけが漂っていた。
彼女が店を出ようとしたとき、若い女性のグループが入ってきた。一人がスマホを取り出し、ドレスではなく、「エテルナ・サステナブル・ヘリテージ」の説明文を撮影していた。
「あのインスタ見た?」女性の一人がささやいた。
「うん、工房の実際の写真、ヤバかった」
「そう、あんな労働環境で作られてるなんて」
「あの事件がなかったら、気づかなかったよね」
「あんなやり方、ただの犯罪じゃん」もう一人の女性が首を振った。
「このドレスを作るのに、どれほどの人が情熱を注いでいると思う?」
彼女らは少し沈黙した。
「確かにそうね。このドレスが素敵なのは変わらないし」
木村は足を止めた。
世界は、少しだけ変わったように見えた。
しかし、何も変わらないのかもしれない。
