見出し画像

【短編小説】アイデンティティが無い、生まれない

一匹の鳥が、死んだ。

朝のニュースキャスターが神妙な口調で告げる。「昨夜、佐渡で飼育されていた最後の日本産トキが死亡しました。ケージの扉に激突したことが死因とみられています。これにより純粋な日本産トキは絶滅したことになります」

画面には朱鷺色の羽を広げたトキの映像が流れた。美しい鳥だった。

「次のニュースです。イラクでは昨日新たに民間人十三名が死亡し、米軍の駐留に対する反発が高まっています…」

私はリモコンでテレビを消した。なぜだろう。十三人より、一羽という数字の方が、心の奥に重く沈んでいく。

たかが一匹の鳥が死んだだけだ。人間の方がずっと大切なはずなのに。

でも、胸の奥がざわついている。


鳥舎に向かう足取りが重い。朝の清掃作業を始めるが、手は動いても心はどこか上の空だった。

目の前の檻で羽ばたく鳥たちを見つめながら、ふと考える。この子たちの命と、遠いイラクで失われた十三の命と、そして今朝死んだ一羽のトキと。重さに違いがあるとすれば、それを測るのは一体誰なのだろう。

「おはよう、鳥山さん。今日も鳥たちは元気だね」

同僚が朝の挨拶を交わしてくる。

「ええ、まあ」

「この仕事向いてるよ。動物は、好きだろう?」

「はい。人並みには」

いつもの答えが口をついて出る。人並み。その響きが、今朝は妙に空虚に響いた。

午後の陽射しが鳥舎を斜めに切り取る頃、一人の青年が近づいてきた。大学生らしい、屈託のない笑顔。手には使い込まれたノートとペンを握っている。

「すみません、飼育員の方ですよね?」

「はい」

「田辺と申します。大学で哲学を学んでいまして、レポートを書いているんです。よろしければ、少しお話を聞かせていただけませんか」

哲学科の学生。珍しい来園者だった。

「今朝のトキのニュース、見ましたか?」

「ええ、見ました」

「どう思われますか?」

思いがけない質問だった。

「さあ、どうでしょうね。悲しいことだとは思いますが」

「僕も悲しかったです。でも、国鳥って何でしょうか。鳥に国境なんてないのに」田辺は首をかしげた。「中国から新しいトキを連れてくるって言ってましたけど、それは日本のトキになるんでしょうか」

「それは…わからないですね」

「血統は中国なのに、日本で生まれたら日本の鳥?不思議です」

「私は鳥の生態については多少わかりますが、そういった話は専門外で…」

田辺は続ける。「あと、同じニュースでイラクの人が死んだって言ってたのに、僕、トキの方が気になっちゃって。変ですよね」

私は答えに詰まった。まさに同じことを考えていたからだ。

「飼育員の方なら分かってもらえるかなと思って」田辺は続ける。「やっぱり動物が好きでこの仕事に?」

「ええ、まあ、人並みには」

また、その言葉が出た。

「人並み?」田辺は首をかしげた。「でも、さっき見てたら、すごく丁寧に世話してらっしゃいましたよね」

「いえ、本当に人並みです」

田辺の顔が、きょとんとした。

「飼育員になるって、普通じゃできないと思うんですけど…」

―その瞬間、私の中で何かが音もなく崩れた。
静かに、しかし完全に。

田辺の無邪気な驚き。純粋な疑問。そこには悪意のかけらもない。だからこそ、私は何も答えることができなかった。

飼育員は動物が好きなはずだ。それは当たり前のことだ。でも私は?本当に動物が好きなのか?

「あ、すみません」田辺が手を振った。「変なこと聞いちゃって」

「いえ、大丈夫です」

私はかろうじてそう答えたが、声が震えているのが自分でもわかった。

田辺は丁寧に会釈をして立ち去った。残された私は、鳥舎の前で立ち尽くしていた。

しばらくして、小さな女の子が母親に手を引かれてやってきた。

「ママ、この鳥、日本の鳥?」

「そうよ、日本の動物園だから日本の動物に決まってるじゃない」

母親の確信に満ちた答え。その単純さが、動揺している私には眩しすぎた。

夕刻、来園者の姿が消えた園内に、鳥たちの声だけが響いている。遠くで電車の音が聞こえ、街の夕暮れが静かに始まろうとしていた。

私とは何者なのだろう。
好きな服もない。好きな本も、食べ物も、曖昧にしか答えられない。
動物は、人並みに好きだ。「人並み」に。


帰宅してテレビをつけると、夕方のニュースが流れていた。「中国産トキの導入計画が本格化しています」。アナウンサーの声が、まるで遠い国の出来事でも伝えるように響く。

田辺の言葉が、波紋のように心の奥で広がり続けている。「飼育員になるって、普通じゃできないと思うんですけど」

その当たり前すぎる疑問が、私という存在の土台を静かに侵食している。

明日もまた、動物園へ向かう。鳥たちの世話をする。水を撒き、餌を替え、檻を清掃する。

それでいいのだろうか。それがいけないのだろうか。

どうして、今になって気づいたのだろう。
どうして、一匹の鳥の死が心に残るのだろう。
どうして、自分が何者か分からないのだろう。

あの鳥は、本当に事故で死んだのだろうか。
三十六年間、世界に一匹で檻の中に。
最後の力で飛び立って、頭をぶつけて死んだ。

もしかして。

その時、遠くから鳥の鳴き声が聞こえた。
その音が、なぜか私の心を落ち着かせる。

もしかして、私は。

答えのない問いと小さな発見が、夜の静寂の中で静かに響いている。



いいなと思ったら応援しよう!