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【短編小説】舞姫が消えた理由と残る理由

鉛色の空が、ベルリンを静かに覆っていた。

加藤雪音は窓際のピアノの前に座り、指を鍵盤に置いたまま動かずにいた。暖房の効きが悪く、吐く息が白い。一月の午後、陽の射さない空の下で、この街は深い沈黙に包まれていた。

壁が崩壊し、統一から一年と三ヶ月。
父が帰国してから、十年。母が消えてから、二年。

バッハを弾こうとしたが、指が震えて音にならない。母が愛したという曲。しかし、その愛さえ今では疑わしかった。

街に出ると、風が頬を切った。カント通りの角で、雪音は日本語を耳にして振り返った。

「すみません、日本の方ですか?」

コートの襟を立てた青年が、困ったような笑顔を浮かべていた。

「林欧介と申します。ベルリン自由大学の」

「雪音です」

カフェの奥では、数人の日本人留学生が身を寄せ合うように座っていた。「やっぱり日本が恋しい」「冬の寒さは耐えられない」という声が聞こえる。雪音は、彼らから遠い席を選んだ。林も、同じように距離を置いた。

「政治学を専攻しています。統一後のドイツの研究で」

林は言った。

「素晴らしいことですよね、統一は」

雪音の手が、カップを握り締めた。

「そうですね」

声が上擦った。林は何かを感じ取ったように、それ以上は言わなかった。

「僕も最近、理論通りにいかないことばかりで」

窓の外では、灰色の雲が重く垂れ込めていた。二人の間に沈黙が流れた。しかし、それは群れる声とは違う、孤独を分かち合うような静寂だった。


二月。二人は、クロイツベルクの同じアパートで暮らすようになった。旧東側の物件は、安くて広かった。

雪音のピアノの音が壁を通り抜け、林の論文執筆を遮ることがあった。しかし時折、その旋律が彼の固まった思考を溶かすこともあった。理性では捉えきれない何かが、音の隙間から流れ出してくるのだった。

夜中、林が論文に行き詰まって頭を抱えていると、雪音は無言でコーヒーを淹れてくれた。彼女もまた、ピアノの前で動けなくなることがあった。指が震え、音が出せない夜。そんな時、林は静かに隣に座った。


「母のことを、話したことがありませんでした」

三月の夕暮れ、雪音が口を開いた。

「東の人でした。でも、西の人として生きていた。父と出会い、私を産み、普通の家庭を築いているように見えた」

林は手を止めて耳を傾けた。

「父は、日本大使館の職員でした。私が十二歳の時、父は帰国した。でも母と私は残った」

雪音の声が震えた。母への愛と憎しみが、胸の奥で絡み合っているのが分かった。

「そして壁が崩壊した時、母も消えました。写真の一つも残さずに。それから知ったんです。母は諜報員だった。シュタージの」

林は息を呑んだ。

「私を産んだのは、愛ではなく、歴史だったんでしょうか」

雪音は林を見つめた。その瞳に、深い悲しみと怒りが宿っていた。

「林さんは歴史の進歩を信じている。でも、その歴史は、私という人間を何のために作ったんですか」

林は答えることができなかった。
城ノ内教授の理論——歴史の合理的進歩、民主主義への収束——それらすべてが、目の前の一人の女性の痛みの前では虚ろに響いた。学者としての自分が、音を立てて崩れていくような気がした。

歴史の終わり? 歴史は、こんなにも残酷に続いているではないか。


四月。菩提樹に若葉が芽吹き始めた頃、城ノ内教授からの手紙が届いた。

「研究は十分でしょう。論文は日本で仕上げれば良い。早期の帰国を検討してください」

夕方、シュプレー川沿いを歩きながら、林は言った。まだ、壁は残っていた。

「一緒に日本に来ませんか」

雪音は立ち止まった。川面は鉛色の空を映し、静かに流れていた。

「私には故郷なんてありません」

「それでも」

「日本は父の国、ドイツは母の国。でも、どちらも私を裏切った」

空から細かい雪が舞い始めた。四月だというのに。

「それでも、ここにいたいんです」

「なぜ?」

雪音は微笑んだ。初めて見せる、安らかな表情だった。

「理由なんて、ありません」

林は雪音を見つめた。合理的に考えれば、帰国すべきだった。師の期待に応え、学者としてのキャリアを築くべきだった。
しかし、この数ヶ月で彼が学んだのは、理性の限界だった。理論では掬い取れない現実があることを。

「僕も、帰りたくない」

「なぜ?」

今度は林が微笑んだ。

「理由なんて、ありません」

雪は東も西も関係なく降り続けた。境界線など、もうどこにもなかった。雪の中で、二人だけの新しい世界が静かに始まろうとしていた。


十二月。

林は論文で煮詰まっていた。雪音のピアノの音が、重く響く。

林は、寒さを覚悟で窓を開けた。吹雪が勢いよく入り込み、ピアノの弦が微かに震えた。ピアノの裏から、何かが床に舞い落ちる音がした。
林は慌てて窓を閉める。

雪音は振り返り、一枚の写真を拾い上げる。
そこには、「雪音へ」と一言だけ書かれていた。母の字だった。

写真に映る三人。若い父と母、そして幼い雪音。三人とも、笑っていた。

雪音はそれをじっと見つめていた。
写真が滲んだ。入り込んだ雪が溶けたのか、あるいは。

「もしかすると」林が静かに言った。
「歴史じゃなかったのかもね」

その夜、雪音はバッハを弾いた。今度は、指が震えなかった。

歴史は終わらない。
そして時には、歴史を選び直すことができる。

理由などなくても。



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