【短編小説】共に歩く道を見つけよう
佐野恵子は、窓の外を見ていた。
「ひまわりの家」の庭で、樹が一人でベンチに座って本を読んでいる。十四歳の少女は、いつも一人だった。
「また樹ちゃんね」隣の職員が呟く。「あの子、誰とも仲良くしようとしないのよ」
佐野は首を振った。樹は仲良くしないのではない。仲良くする方法を忘れてしまったのだ。
三年前のあの事故。
「友達と遊ぶ約束があるの。家族旅行なんて行きたくない」
樹がそう言ったから、両親は予定を変更した。そして二人で出かけて、二度と帰ってこなかった。
樹はそれ以来、自分の意見を言うことを恐れるようになった。代わりに、皮肉めいた微笑みを浮かべるようになった。
その日の午後、面談室に一人の女性が訪れた。
「真理子と申します」
五十代前半と思われる女性は、静かな声で自己紹介した。紺色のシンプルなブラウス、控えめな化粧。特に目立つところのない、普通の女性に見えた。
「これまでに子育ての経験は?」佐野が書類を確認する。
「ありません」真理子は正直に答えた。「でも最近、一人で歩くことの限界を感じるようになって」
佐野は真理子の手元を見た。薬指には何もなかった。
「大きすぎる責任を一人で背負い続けてきました。でも本当は、誰かと共に歩みたかった」
「真理子さん」佐野が眉をひそめる。「失礼ながら、ここは結婚相談所ではありませんよ。お子さんに何を求めていらっしゃいますか?」
「分かっています。ただ、誰かと一緒に道を見つけていきたいんです」
翌週、樹と真理子の面談が行われた。
佐野は隣の部屋から二人の様子を観察していた。
「イツキといいます」
「こんにちは、イツキさん。漢字はどうやって書くの?」
「樹木の」樹が答える。
真理子が一瞬、息を止めた。「いい名前ね」
樹は警戒するような目つきで真理子を見た。「どこがいいんですか。ただの木じゃないですか」
真理子は少し間を置いてから答えた。「木は真っ直ぐ成長するものだから。根を張って、時間をかけて」
「成長なんて面倒です」樹は小さく笑った。「このままで十分です」
「そうかしら」真理子の声に、かすかな温かさが宿った。「でも木は、自分が思っているより、たくさんの可能性を持っているものよ。木陰を作ったり、実をつけたり」
「私は誰の役にも立ちません」
真理子は樹をじっと見つめた。
「それでいいのよ。今は。でも昔、こう言った人がいたの。『困っている人を見て見ぬふりをしてはいけない』って」
「その人は今どこにいるんですか?」樹は鋭く尋ねた。
真理子の表情が曇った。「もういないの」
「その人が教えてくれたこと。一緒に考えて、一緒に歩くことが一番大切だって」
「その人は、あなたにとって特別な人だったんですね」
「ええ。とても」真理子は静かに答えた。
会話のすべてを、佐野は聞き取ることはできなかった。しかし、樹の何かが確かに動いたことだけは分かった。
その夜、佐野は真理子の身元調査の結果を見て愕然とした。
財閥の当主。日本有数の資産家。国際支援、貧困支援、文化支援事業の先駆者。
しかし面談での彼女は、そんな素振りを一切見せなかった。
佐野は樹の部屋を訪れた。
「真理子さん、どうだった?」
樹は本から顔を上げた。「変な人でした」
「変?」
「大切な人を亡くしてる人です。でも、私に同情しませんでした」
佐野は樹の表情を注意深く観察した。この三年間で初めて、彼女の目に小さな光が宿っていた。
樹は真理子の目の奥に、自分と同じ何かを見つけたようだった。
三ヶ月後、児童相談所への報告書を書きながら、佐野は迷っていた。
他の養親候補との面談では、樹はいつもの皮肉めいた微笑みを浮かべるだけだった。しかし真理子といる時だけ、彼女は素の表情を見せた。
佐野は報告書に書いた。
「当該児童と養親候補者の間に、良好な関係性の基盤が認められる」
本当の理由は書かなかった。樹が真理子といる時、初めて「独りでいながら、誰かと一緒にいる」安らかな表情を見せたということを。
三ヶ月後、縁組の手続きが完了した。
佐野は施設の玄関で、樹を見送った。
「寂しくなったら、いつでも会いに来なさい」
樹は小さく頷いた。それから振り返って言った。
「佐野さん。あの人、最初は普通の大人だと思ってました。でも違いました」
「どんなふうに?」
「あの人といると、私が何を言っても受け止めてくれるって分かるんです」樹は言葉を探した。
「あの人も大切な人を失ってるから、一人で頑張りすぎちゃう人なんです。だから、私が一緒にいてあげたいんです」
真理子が迎えに来た。相変わらず質素な服装だった。
「一緒に歩こう」真理子は樹に手を差し伸べた。
樹は少し迷ってから、その手を取った。
「真理子さん」樹は小さな声で言った。「あなたが大切にしていた人の分も、私、頑張りますから」
真理子の目に涙が光った。「ありがとう。でも頑張らなくてもいいの。その人も、きっとそう言うと思うから」
佐野は二人の後ろ姿を見つめた。
真理子は樹を誰かの代わりとして求めたのではない。樹もまた、真理子を新しい母親として求めたのではない。
二人は、同じ喪失を知る者同士として、互いを支え合いながら新しい道を歩み始めたのだ。
夕日の中を歩いていく二人の影は、やがて一つになり、長く伸びていった。
