【短編小説】カネもツラもいつかはなくなる
一月。雪が舞う六本木の夜。
旗家錠一は、クリスタルの灰皿に煙草を押し潰しながら、手元の明細書を眺めていた。冬のボーナス、八百万円。三十歳の彼にとって、それは魔法のような数字だった。
「今夜は俺のおごりだ」
向かいに座る榊原涼介が、笑顔を浮かべた。二十七歳の俳優は、美しかった。その美貌は旗家がこの場で必要とするものだった。
高級ラウンジの女性たちは、榊原の存在に気づくと、自然と近づいてくる。彼女たちは旗家の高級時計と榊原の顔を交互に見つめ、計算している。
「また、すごい額ですね」
「金が金を呼んでる。止まらないんだ」
窓の外、東京の夜景が宝石箱のように輝いている。美女たちが旗家のテーブルの周りに集まり始めた。榊原が微笑むと、彼女たちの笑い声が一層華やかになる。
旗家は満足していた。シャンパンを注文し、高級料理を頼み、札束を惜しげもなく使う。支払いは全て自分。だが榊原がいなければ、この華やかさは成り立たない。
「榊原、お前がいると場が違うな」
「そうですかね」
「金だけじゃ限界がある。でもお前の顔があれば完璧だ」
榊原は黙って聞いていた。
午前四時。高級クラブを出た二人は、タクシーの中で無言だった。
「いつもありがとうございます」
タクシーを降りる直前、榊原が小さく言った。
「いいんだ。俺たちはいいコンビじゃないか」
榊原は窓の外を見つめていた。
三月。朝九時。オフィスのフロアは活気に満ちていた。
旗家の周りに、若い同僚たちが集まっている。彼らの視線は尊敬と羨望に満ちていた。
「今日はどうですかね、旗家さん」
後輩の田村が訊いた。
「上がるに決まってる」
旗家は自信満々に答えた。壁の大型モニターには、日経平均の数字が踊っている。三万八千円台。史上最高値を更新し続けていた。
「俺の読み通りだ。お前らも俺についてこい」
その時、電話が鳴った。
「お忙しい中、失礼いたします。こちら青山外車センターの山田と申します」
「ポルシェ911、納車の準備が整いました」
現金で一括購入した車。旗家の胸が躍った。
電話を切ると、同僚たちの視線がさらに熱くなった。
その時だった。
フロアの向こうから、誰かの叫び声が聞こえてきた。
「おい、これ見ろよ!」
全員の視線がモニターに向いた。
日経平均の数字が、信じられないスピードで下がっていく。
三万八千円が、三万七千円になり、三万六千円になり、三万五千円になった。
旗家は立ち上がった。足が震えているのを感じた。
モニターの数字は止まらなかった。三万四千円、三万三千円、三万二千円。
フロアが静寂に包まれた。
同僚たちの視線が、彼の背中に突き刺さっていた。
五月、湯島の場末のバー。薄暗い照明の下で、旗家は一人でウイスキーを飲んでいた。
総務部に異動してから二ヶ月。毎朝八時半、書類を整理し、電話を取り、コピーを取る。給料は半分以下になった。ポルシェは売ったが、買い叩かれた。残業代で何とか生活している。六本木は遠い世界になった。
机に向かって数字を入力する時、旗家は考えていた。俺は何者だったのか。あの時の俺は、金があったから価値があったのか。金がなければ、俺は何なのか。
「旗家さん?」
振り返ると、榊原が立っていた。変わらず美しい顔立ちだった。そして、彼の後ろに二人の女性がいた。ラウンジの女性たちとは違う。普通の、でも魅力的な街の女性たちだった。
「榊原か」
「偶然ですね。こちら、友達の美香さんと恵子さん」
女性たちが榊原に寄り添っている。自然に、親しげに。
「お一人ですか?よろしければご一緒に」
榊原が言った。女性たちが微笑んでいる。
「いや、俺は一人でいい」
旗家は振り返った。
榊原たちは少し離れたテーブルに座った。女性たちの笑い声が聞こえてくる。金を払っているわけではない。ただ榊原がそこにいるだけで、楽しそうに話している。
旗家は自分のグラスを見つめた。
「大変でしたね」
榊原が一人で近づいてきた。
「まあな」
「でも、これでよかったのかもしれません」
「どうして?」
「あの頃の旗家さん、何かに追われているみたいでした」
旗家は榊原を見た。
「今は?」
「落ち着いてる」
「落ち着いてる、か。毎日書類ばっかりだからな」
旗家は苦笑いした。
「でも、それが俺の本当の価値だったのかもしれない」
「価値?」
「金があるから価値がある。金がなければ何もない。シンプルだろう」
榊原は黙って聞いていた。
「お前は違うな」
「何がですか?」
「お前には金がなくても人が寄ってくる」
旗家は榊原の後ろのテーブルを見た。女性たちが待っている。
「人生なんて、楽しんだもん勝ちじゃないですか」
榊原が言った。
旗家の顔が変わった。
「簡単に言うな」
「でも...」
「お前には分からない」
旗家の声が低くなった。
「俺は何もかも失った。金も、地位も。毎日同じ仕事の繰り返し。価値のない人間になった」
「そんなことないでしょう」
「ある。俺は金で人を買っていた。お前も、女も。でもお前は違う。お前は何も払わずに人を惹きつける」
榊原は何も答えなかった。
「俺はお前を利用してた。お前の顔を。お前もそれを知ってただろう」
「はい」
榊原が小さく答えた。
「でも今は逆だ。お前が俺を哀れんでる。俺には何もない。お前にはまだ全部ある」
旗家は立ち上がった。
「楽しめばいいだって?お前には簡単だろうな。俺みたいに一人で安酒を飲む必要なんてない」
カウンターに小銭を置いて、旗家は店を出た。
榊原は女性たちのテーブルに戻った。彼女たちが笑顔で迎える。
外で雨が降り始めていた。
旗家は濡れながら歩いていた。
榊原は窓の外を見つめながら、グラスを回していた。
「俺の顔だって、いつか老いるのにな」
