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【短編小説】あなたの意味は、ひとつとは限らない

工藤南子は、冷めたコーヒーを見つめていた。
二十六歳。父が残した探偵事務所を継ぎ、日々、浮気や素行調査に追われている。
もっと真面目に学業に励んでいれば、こんな毎日にはならなかった。そんな考えが、ふと頭をよぎる。

電話が鳴った。
「お忙しいところ申し訳ありません。調査をお願いしたくて」
丁寧な中年男性の声だった。

「はい、どのようなご依頼でしょうか?」

しばらくの沈黙。そして、震える声でこう続いた。
「自分の人生に、意味があったのか、調べていただけませんか」

南子は受話器を握り直した。
「……詳しくお聞かせください」

「必要な費用はお支払いします。明日、資料をお送りします」

翌日届いた封筒には、現金百万円と、1行だけ書かれた便箋が一枚。
『田中一郎 六十二歳 元東都商事勤務』

先代の父なら「奇妙な依頼は断れ」と言っただろう。
南子は、封筒をもう一度見つめた。


新宿の東都商事。受付の女性は田中の名を聞くと、少し考えてから答えた。
「ああ、経理部の田中さん。昨年の春に退職された方ですね。ご病気で、と聞いています」

「どのような方でしたか?」

「とても真面目な方でした。四十年、遅刻なしって社内で有名でしたよ」

時間を作ってくれたのは、経理部の佐藤次長。神経質そうな痩身の男性だった。
「田中さんは、信頼できる人でした」
彼は懐かしそうに、言葉を継いだ。

「私が入社したばかりの頃、取引先への振込を間違えて、大騒ぎになったんです。責任は全部私にあったのに、田中さんは何も言わず、私と一緒に頭を下げて回ってくれました」

そして最後に、こう言ってくれたのだという。
『大丈夫だ。みんな通る道だから』と。

「田中さんは、仕事に生きがいを感じていたと思われますか?」

「それは……分かりません。ただ、毎日、同じ時間に来て、黙々と働いていた」


南子は、田中が暮らしていた街へ足を運んだ。商店街で聞き込みを重ねる。

魚屋の主人は目を細めて言った。
「毎朝七時に、魚を買いに来る。もう四十年近く。でも……先月から見ないな」

「どんな方でしたか?」

「無口で、礼儀正しい人だった。最近ちょっと痩せたようで、気にはなってたんだが」

近くの公園。ラジオ体操を終えた老人たちに声をかけた。
「ああ、田中さんね。毎朝来てたよ。体操が終わると、必ず丁寧に頭を下げて帰っていく」

「印象に残っていることは?」

「去年の夏祭りだな。子供が迷子になって、みんなで探したんだ。田中さんが一番遠くまで走って探してくれて。見つかった時、誰より喜んでたよ」


将棋クラブは、駅前の公民館にあった。

「ああ、田中さんは、決して強くなかったが、一生懸命な人だった」白髪の初老の男性が穏やかにに語る。

「負けても不機嫌にならない。感想戦では、相手のいい手を素直に褒める。……なかなか、できることじゃない」

「何か、印象的なことはありましたか?」

彼はしばし考えてから、こう言った。
「私が大病を患った時、毎週お見舞いに来てくれました。話は少ないけれど、あの人は、ただそこにいてくれた」

そして、ふと付け加えた。
「私は元研究者で、つい物事を分析的に見てしまう癖がある。でも、田中さんと一緒にいると、そういう理屈がどうでもよく思えてくるんですよ。不思議なことに」


中野の住宅街。
インターホンを押すと、女性の声が応えた。

「工藤と申します。探偵業をしております。ご主人について、少しお話を伺いたくて」

玄関に現れた五十代後半の女性は、疲れた表情を浮かべていた。

「主人が何か……問題でも?」

「いえ。調査の一環でして。お時間、少しいただけますか」

通された居間には、薬の袋が整然と並んでいた。
「どのような調査ですか」と、彼女は訊いた。

「ご主人のお人柄についてです」

女性は、迷いながらも口を開いた。

「不器用な人でした。でも、家族のために、ずっと働き続けてくれました。子供たちの学費も、私が体調を崩したときも、何ひとつ文句を言わずに」

「ご主人は、幸せだったと思われますか?」

長い沈黙。彼女は窓の外を見つめた。

「それは……分かりません。ただ、毎晩遅く帰ってきて、私が『おかえり』と言うと、『ああ』とだけ。でも、その一言に、私は小さな幸せを感じていました」

そのとき、奥からかすれた声が聞こえた。
「美代子、お客さんかい?」

痩せた身体で現れたのは、田中一郎本人だった。

「あなたが、調査をしてくださった方ですね」

田中は静かに腰を下ろし、訊いた。
「結果を……教えてください」

南子はこれまでに集めた証言を、ひとつひとつ、丁寧に語っていった。

「田中さん」
「それぞれの場所で、あなたは違う顔を持っていました。職場では『信頼』、街では『真面目さ』、仲間には『優しさ』。そして、ご家族にとっては『支え』でした」

田中は黙って聞いていた。

「ひとつひとつは、小さく見えるかもしれません。でも、あなたがそこにいることで、日々が静かに成り立っていた。それは、確かです」

「でも……」田中は戸惑うように言った。
「それは本当に“意味”と呼べるものなんでしょうか。普通の人生です。特別なことは、なにもしていません」

「田中さん」南子は、静かに言った。

「意味はきっと、ひとつの大きなものではなくてもいいんです。たくさんの場所で、あなたの残した小さな意味が積み重なっている」

その言葉に、美代子はそっと目を伏せた。「そうね……それが、あなたらしい人生なのよ」

田中はしばらく沈黙していた。そして、ふと微笑んだ。

「ああ……ひとつじゃなくても、大きくなくても、いいのか」

「あなたの人生に、確かに意味はあるはずです」南子は答えた。


三ヶ月後。田中一郎は、穏やかに息を引き取った。葬儀には多くの人が訪れ、それぞれが違う“田中一郎”の思い出を語った。

帰り道、南子は父のことを思い出していた。
「真実は、いつもひとつだ」――それが父の口癖だった。

けれど今の彼女には、違う答えがある。
意味も、真実も、きっとひとつである必要はないのかもしれない。

事務所に戻ると、新しい依頼の電話が鳴った。
今度は、行方不明になった猫の捜索だった。

南子は小さく笑った。
どんな依頼にも、誰かの小さな願いが込められている。そのことがわかった。
田中の人生は、南子にとっても意味があったのだ。

雨上がりの空に、虹が架かっていた。
ひとつの光が、七色に分かれて、空をやさしく彩っている。

「……きれい」

きっと、田中一郎という一人の男が残した“意味”も、そういうものなのだろう。



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