【短編小説】「汝」と「それ」の境界線
木村澪は窓の外に目をやった。風に舞う桜の花びらは、彼女にとってただの色にすぎない。対面に座る青年は、昨日から一言も発していなかった。
「証拠品A-4を見てください」
淡々と告げ、彼女は清水直樹のノートパソコンを示した。画面には複数の学生へ向けた勧誘メッセージが残されている。清水は黙ったまま。彼の表情には恐怖が滲んでいた。
資料をめくる手が止まった。ファイルの間から一冊のノートが滑り落ちた。無意識に開いたページには赤ペンで丁寧に書き込まれた文字があった。
『人を手段としてではなく、目的として見るということ』
その横には清水の走り書き。「他者を見る目が変われば、世界が変わる」
木村は冊子を閉じた。
「続けましょう。被害届は八件。上級生の証言では…」
城ノ内修平教授の研究室は、静けさに満ちていた。
「清水容疑者について伺いたいのですが」
城ノ内は窓際から振り返った。歳は60を超えているだろうか。穏やかな眼差しが木村を迎える。
「彼の素行や、周囲との関係についてお聞きしたく」
「清水君は優秀な学生です」
城ノ内は本棚から一冊の本を取り出し、ゆっくりと開いた。
「彼は祖母の介護に追われていました。保険外の高額医療が必要で」
「それでお金に困っていた」
「ええ。しかし彼の本質はそこにはありません」
城ノ内は本を閉じ、木村の目を見た。
「人は窮地に立つと、他者を見る目が変わる。相手を利用できる『対象』としてしか見えなくなる。清水君も、勧誘した学生たちをそう見ていたのでしょう。」
城之内は、木村の目を見て続ける。
「しかし時に、それは鏡に映った自分自身なのです」
言葉に重みがあった。木村は沈黙した。
「取調べは進んでいますか?」
「黙秘を続けています」
「それはそうでしょう。あなたが見ているのは『容疑者』であって、『彼』ではないのだから」
帰り道、木村は清水の資料を読み返した。生年月日、学歴、現住所。数字と名前ばかりが並び、人間の姿が見えなかった。
三回目の取調べの日、木村は一冊の写真アルバムを持ってきていた。
「あなた、去年の震災の時、被災地でボランティア活動をしていたのね」
清水の顔に驚きが走る。アルバムには、瓦礫の中で子どもたちと笑う清水の姿があった。
「どうして」
「あなたを知るために」
風が窓を揺らした。清水の目に、かすかな光が宿る。
「話せないんですか?」木村は静かに尋ねた。
「...彼らは、祖母のことを知っています」清水の声が震えた。「もし私が話せば...」
「組織の人たちに脅されているのね」
清水は再び黙り込んだが、その沈黙は昨日までとは違っていた。
「あのボランティア、最初は大学の単位のためだったんです」やがて清水は小さな声で言った。「履歴書に書ければいいと思って」
四回目の取調べで、清水は少しずつ話し始めた。
「先輩に誘われた時、本当に稼げると思いました」彼は言った。「でも、すぐに詐欺だとわかって...抜けようとしたら、祖母のことを匂わされて...」
「でも、あなたも学生を勧誘した」
「怖かったんです。でも、それだけじゃない。自分でも気づかないうちに、彼らを...単なる『数字』として見るようになっていました」
木村は黙ってアルバムを閉じた。
「あの時のボランティアで関わった子どもたちとは、今も連絡を取り合っているの?」
清水の目に涙が浮かんだ。
「最初は単位のためだけだったのに」彼はかすれた声で言った。「気づいたら手紙をもらうのが楽しみで...名前を覚えて、顔を見ると嬉しくて」
「司法取引を提案します」
木村は上司の前で言い切った。
「清水は組織について証言する用意があります。彼は脅されていました」
「彼も加害者だぞ」上司は静かに言った。
「でも、より大きな悪を暴く鍵になります」
上司は木村の目を見つめた。
「君が彼を信じる理由は?」
「彼を知ったからです」
清水は司法取引に応じた。彼の証言により、組織の上層部が検挙され、全容が明らかになった。裁判では清水の協力が考慮され、懲役2年、執行猶予4年の判決が下った。
最後の出廷日、彼は木村に静かに言った。
「また、被災地ボランティアに参加しようと思うんです。今度は、履歴書の一行のためじゃなく」
木村は微笑んだ。
「あの日、どうして話し始めたの?」
清水は桜の舞う窓の外を見た。
「あなたが、初めて私を見てくれたから」
春の光が二人を包み、風に舞う桜が窓辺を彩っていた。
