【短編小説】わたしのインフルエンザ
ドアノブに手をかけた。
私はいつもよりためらう。
ドアの向こうには誰もいない。
けど、部屋に入った瞬間、私は無数の目に見られることになる。
一人なのに、決して一人ではない──そんな日常が、私の現実だった。
天井から吊るされたリングライト。白とベージュのセンスの良い家具。整えられた観葉植物と撮影小道具たち。
私の部屋は、もはや「住まい」でなく、見られるための「舞台」。
その中心で、私はスッピンのままカメラと向き合っていた。
「宮瀬理沙です。今日で、高級香水ブランド『エッセンス・オブ・タイム』とのコラボレーションは最終回です」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
本当の自分の声を聞いたのは久しぶりだった。
「これまで私は、香りを映像で表現しようとしてきました。でも、気づいたんです。本当に大切なものって、目に見えないのかもしれないって」
投稿ボタンに指をかける。
ほんの一瞬、また躊躇った。フォロワーを減らすかもしれない。スポンサーを失うかもしれない。
それでも──私は投稿した。
すべては、一ヶ月前のことだった。
「ミヤセでーす!今日は高級香水ブランド『エッセンス・オブ・タイム』とのコラボ初日です!」
私はカメラに向かって、完璧な笑顔を浮かべていた。マネージャーの村田が並べた中から、私は真っ先にこの仕事を選んだ。
「高級ブランド」という言葉の響きが、自尊心をくすぐる。
白い壁の前で、計算された角度で顔を傾け、髪を耳にかける。何度も練習した「自然な」動き。
スマートフォンには、インフルエンサー向けの推奨キーワード。
『今日のキーワード:サステナブル、匠の技、限定体験』
「このブランドは百年以上の歴史を持つ老舗!すごいですねー!
サステナブルな原料にこだわり、匠の技で創られる香りは限定体験そのもの!
今日はその工房に潜入します!」
私は頭の中で映像を組み立てていた。ガラスの実験室、スタイリッシュな調香師、鮮やかな色彩。
だけど、現地に着いた瞬間、そのイメージは崩れさった。
木と土と植物の香りが混ざる静かな空間で、一人の女性が小さなガラス瓶に向き合っていた。
彼女──西野葵さんは、液体から目を離さなかった。
「撮影の準備をしますね」と私が声をかけると、彼女は初めて私を見た。
「香りって、撮影できませんよね」
その一言に、私は返す言葉を失った。
私は、見せることを仕事にしている。そんなことを言われても、見えないものは見えない。
「ボトルのデザインなら素敵な映像が撮れますし、調合の過程も美しいと思います」
彼女は瓶を光に透かして見つめながら言った。
「確かに美しい。でも、それは香りじゃありません」
私の困惑を察したのか、葵さんはやわらかく微笑んだ。
「撮影しましょう。でも、本当に大切なものは見えないことを、いつか理解してほしいです」
撮影の合間、葵さんのスマートフォンが鳴った。彼女は画面を見て、目元を緩めた。
「息子です。あなたのフォロワーなんですよ」
私は驚いた。
「息子はあなたのコンテンツをよく見ています。今日の撮影を話したら、とても楽しみにしていました」
休憩中、私は教えてもらったアカウントを探した。makoto_n。フォロワーは多くない。けど、時々印象的な言葉を残していた。
過去の私の投稿に、彼のコメントがあった。
『さすが!センスいいね。でもそれって自分で選んでるつもりで、選ばされてるんじゃない?』
読んだ瞬間、胸の奥に小さな違和感が走った。
私は、自分で全てを選んでいるつもりだった。だけど、本当に?
「最近の君は特にいい。自然体になってきたね」
村田の言葉に、私は微笑んだ。
その「自然体」も演技なのに。
カメラの前と後。その境界は、どんどん曖昧になっていた。
葵さんと過ごすうちに、私は彼女の言葉を少しずつ理解しはじめていた。
「見えないからこそ価値がある」と。
ある夜、私はいつもと違う投稿をしようと思った。いつものセットで、静かな声で語りかける。
「香りは見えません。でも、本物の香りはあなたの記憶を呼び覚ます。だから私は今、“本当の自分”で話しています」
翌朝、通知が溢れていた。視聴回数は過去最高だった。
村田からもメッセージが来た。
『大当たり!フォロワーから「こういう自然体な内容をもっと」とコメントが来てる』
私はスマートフォンを伏せて、天井を見つめた。
正直な瞬間すら、新たな商品になる。その空虚さに、目を閉じる。
その夕方、makoto_nからコメントが届いた。
『なんか雰囲気変わっていいね!でも「本当の自分」って結局もうひとつのコンテンツになるんだよね。それって、逃れられない病みたいなものでさ』
私は、思わず返信した。
『そこから抜け出す方法はある?』
数時間後、返ってきた言葉。
『わかんない。でも、こうやって考えること自体が何かの一歩なんじゃないかな』
最終回の撮影日、私は工房を再び訪れた。カメラは、忘れたふりをした。
「撮影は中止ですか?」と葵さんが尋ねた。
私は首を振った。
「今日は、感じたいだけなんです」
葵さんの表情がやわらいだ。
私たちは香りと記憶について話した。見えないけれど確かに存在するものの価値について。
「西野さんの仕事が羨ましいです。私の仕事は、常に“見られること”が前提なので」
葵さんは光に透ける小瓶を見つめながら、言った。
「でも、宮瀬さんには私にはない力がある。見えないものの価値を伝える力」
その言葉で、私は決めた。最後のプロジェクトは、「見えないものの価値」を問うものにする。
「いいね!」は少ないかもしれない。
でも、それが最も真実に近い創造になると、信じていた。
帰宅すると、makoto_nからのメッセージが届いていた。
『最終回、楽しみにしてる。なんか、変わりそうな予感。これからもフォローしてます』
天井から吊るされたリングライト。白とベージュのセンスの良い家具。整えられた観葉植物と撮影小道具たち。いつも隠してきたシミ。整えた自分。
すべてを拭き取りたくなった。
「見られたくない」のではない。
「作り上げた自分」ではなく、本当の自分で見られたい。
私はクレンジングオイルを手に取り、メイクを落とし始めた。
少しずつ現れる素顔。不安と、解放。
スッピンでカメラの前に座る。
「これまで私は、香りを映像で表現しようとしてきました。でも気づいたんです」
私は、息を吸った。
「私はずっと、誰かにどう見られるかばかり気にしていました。好かれたくて、認められたくて、映える言葉や角度を探しています。そして、それが自分の価値だと思っています」
自然と、微笑みがこぼれた気がする。
「でも、見えないものにこそ、大切な価値があるのではないでしょうか」
見られることの重さを知りながら、自分の言葉を探していく。
それが、私の選んだ道だった。
