【短編小説】よそう、また夢になるといけねぇ
『よそう、また夢になるといけねぇ』
桂樹朝は扇子をパチリと鳴らし、手拭いを膝の上に置いた。客席からは温かな笑い声と拍手が起こる。六十二歳の背筋はまだしゃんと伸びていた。
「これにて一席、おあとがよろしいようで」
楽屋に戻ると、弟子の一人が手拭いを差し出した。樹朝は無言で受け取る。
入門から四十三年。古典落語の権威として、また多くの弟子を育てた名師匠として、協会でも一目置かれる存在だった。しかし、それゆえに妬む者も少なくない。人間国宝への推薦が囁かれ始めてからは、特に風当たりが強くなっていた。
楽屋を出ようとした時、携帯電話が鳴った。
「師匠、申し訳ございません。樹雄です」
筆頭弟子の声が震えていた。
「今朝の週刊誌に...樹青のことが」
樹朝の手が止まった。樹青。若い弟子の名前だった。確かに女好きなところはあった。薄々は気づいていたが、大事には至るまいと高を括っていた。
「記事によると、複数の女性に対して...写真も載っていて」
受話器を握る手に力が入った。
「まったく、寝耳に水だ」
嘘だった。完全に寝耳に水ではない。管理を怠った責任は、確かにある。
翌朝の協会での会議は、予想通り厳しいものだった。
「師匠の管理責任は重大です」
理事の一人が、待っていたかのような表情で言った。
「弟子の行動は師匠の責任。これは我々の世界の掟です」
「協会の名誉も地に落ちた。責任をとってもらおう」
掟、と言われた瞬間、樹朝の中で何かがざらついた。なぜ、弟子の犯した罪を師匠が背負わねばならないのか。樹青は二十歳を超えた大人だ。
しかし、それがこの世界のやり方でもあった。自分も四十年以上、その掟に従ってきた。
「いや、協会に残りたければ残ればいい。ただし、もう高座に上がれると思うな」
樹朝は黙って聞いていた。四十年来の顔ぶれ。今日の彼らは、長年の鬱憤を晴らすように生き生きとしていた。
処分が重すぎるのではないか。しかし、管理の責任は自分にある。それは分かる。
樹朝はぐっと言葉を堪えた。
会議の後、樹朝は一人で帰路についた。駅前の喫茶店で、知らない中年男が声をかけてきた。
「桂樹朝師匠でいらっしゃいますね。恐れ入ります、私、東都テレビの」
名刺を差し出す手が、妙に丁寧だった。
「ずっと前から声をかけたかったのですが……こんな形ですみません。是非、我々の番組で、多くの方に本物の芸を。タレント転身への道も、ご用意できます」
翌日には、また別の男が現れた。
「あなたが悪くないのは、理解しています。我々芸術協会でしたら、温かくお迎えできます。条件も申し分ないかと」
樹朝は一人、近所の公園のベンチに座った。桜が散り始めている。
テレビ局のプロデューサーの言葉が頭に残っていた。「多くの方に本物の芸を」。確かに、高座より、テレビで数百万人に落語を見てもらう方が意義は大きいかもしれない。若い世代に落語の魅力を伝えられるかもしれない。
芸術協会の男の言葉も魅力的だった。協会での冷遇、理事たちの嫉妬深い視線から解放される。正当な評価を受けられる場所。
どちらも熱意があり、報酬も申し分なかった。
まるで、「芝浜」だ。大金の入った財布が落ちている。
手を伸ばせば、新しい人生が待っている。
樹朝は立ち上がった。辞めれば楽になる。新しい環境で、新しい可能性が待っている。合理的に考えれば、それしかない。
その瞬間、急に腹が立った。なぜ、俺が居場所を変えなければならないのか。
理由は分からない。損得で考えれば馬鹿げている。財布は手に届くところにある。華やかな世界が待っている。
弟子達のことを思う。もう、落語家として十分やっていけるはずだ。彼らは悲しむかもしれない。しかし最後には、「自分の道を行け」というだろう。
しかし、ただ一つ確かなことがあった。
楽な道を選ぶのは、自分ではない。
自分にも、意地がある。
協会に残留を伝えた時、理事たちは露骨に嫌な顔をした。干される状況に変わりはなかった。寄席からの声もかからなくなり、メディアへの露出も途絶えた。
一月後、樹朝は郊外の小さな老人ホームの畳の間にいた。車椅子の老人たちがまばらな半円を作っている。認知症の患者も多く、彼らは虚空を見つめていた。
それでもいい。樹朝は語り始めた。誰の評価も気にしない。誰の承認も期待しない。ただ、自分が自分のために語る。
「昔、ある男がおりまして」
ゆっくりと、丁寧に。急ぐ必要はない。時間はたっぷりある。彼は得意の「芝浜」を丁寧に続ける。
「これにて一席、おあとがよろしいようで」
その時、畳の間の入口に人影が見えた。
樹青だった。
やつれ果てた顔で、入口に立ったまま動けずにいる。髭も伸び、服もよれよれだった。まるで別人のようだった。
樹朝は扇子を置いた。
「師匠...」
樹青の声が震えていた。彼は両手を床につき、頭を伏せる。
「申し訳ございませんでした。すべて、すべて僕が悪いんです」
涙がぽろぽろと頬を伝っていた。
「師匠の名前に泥を塗って。師匠が大切にしてこられたものを、僕が」
「お前のせいじゃない」
短く言った。
樹青が顔を上げる。
「俺が俺のために落語をやる。お前がどうしようと関係ない」
樹青の目に新たな涙が浮かんだ。
「でも、師匠」
「でも、も何もない」
樹朝は座布団に戻った。
「いつまでそこに突っ伏してる気だ。俺まで恥ずかしくなるだろう」
手拭いを膝に置く。車椅子の老人たちは、二人のやりとりをぼんやりと見ていた。
樹青は、もう一度深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
そして振り返ることなく、畳の間を出て行った。
夕陽が畳の間に差し込んでいた。老人ホームの畳の間には、誰もいなかった。
樹朝はふと思う。楽な道を選んでいたら、どうなっていただろう。テレビの話に乗れば、協会を移籍すれば、今頃きっと多くの観客に囲まれていたはずだ。
「……よそう、また夢になるといけねぇ」
財布は、確かに目の前にあった。だが、手を伸ばさなかった。あの噺の男と同じだ。最後は、酒と金を捨てて現実を選んだ。
遠くで、老人の声がした。
「いい話だったなぁ」
俺の現実は、ここにある。
