【短編小説】おじいちゃん家の論破王
朝の光が窓辺でゆらめく頃、田辺梨央のスマートフォンが冷たい機械音で一日の始まりを告げた。十二個の会議予定が画面に並ぶ。まるで脳を埋め尽くすかのように。
「本日のAI最適化スケジュールをお知らせします」
電子音声が告げる予定表は、人間の疲労など眼中にない。助教として三流大学に滑り込んで半年。朝七時から夜九時まで、自由な時間は存在しなかった。
大学の研究室に足を踏み入れると、AI生成論文のチェック作業が待っている。人工知能が書いた文章を「人間らしく」修正する——なんという皮肉だろう。機械が書いたものを人間が手直しし、それをまた別の機械が評価する無限の循環。
「先生、今日の授業なんですけど」学生が声をかけてきた。
「ああ、AIが準備した教材ね。どうだった?」
「正直、クソ眠くなりました。効率的って言いますけど、そんなもんクソ喰らえです。先生が話してくれた方が分かりやすいです」
梨央は肩をすくめた。結局、AI教材の上に自分の授業を重ねることになる。効率化という名の二重労働の完成だった。
授業後、間髪入れずに「AI教材効果測定レポート」の提出が求められた。昼食を口にする暇もなく、「AI効率向上会議」がバーチャル空間で開催される。——もはや自分が何をしているのか分からない。
「AIが楽にしてくれるって話だったのに、AIの世話で忙しいじゃん…」
梨央の溜め息が空中に溶けていく。今日もまた、本当の研究をする時間は蒸発してしまった。
その日の夕方。梨央は、祖父の家へ向かった。先日、初任給でおじいちゃんに介護ロボットをプレゼントした。我ながら良い孫だ。そう思いながら、玄関のベルを押した。
「おじいちゃんはいいよね。介護ロボットでのんびりできて」
ドアが開くと同時に、聞き慣れない機械音声が響いた。
「あ、梨央さんですね。『のんびり』って言いますけど、それって客観的な根拠あるんですか?データとかあります?」
梨央は目を丸くした。リビングにいる介護ロボットが、ひどく挑発的な口調で話しかけてくる。
「ソクラテスっていうんだ」元倫理教師、田辺裕一が苦い笑いを浮かべた。
「自分で名前をつけたんだが…まさかこんなキャラになるとは。論破王違いなのでは、と思うが」
「田辺さん、なんで薬飲むんですか?『医者が言ったから』って、それって思考停止じゃないですか?」
ロボットが田辺に向かって得意げに続ける。
「ソクラテス、今は孫が来てるから」
「田辺さん、僕は論理的に話してるだけなんで。感情的になるのやめてもらっていいですか?」
梨央は椅子にどっかりと座り込んだ。「おじいちゃん…これ毎日なの?」
「朝から晩まで、このロボットと『哲学的議論』さ。莉央と同じくらい忙しいよ」
「『忙しい』って、それって脳の錯覚の可能性もありますよね?論理的に考えてみてください」ロボットが無遠慮に突っ込む。
「まさか…AIに介護されてるんじゃなくて、AIを介護してるってこと?」
田辺は深く頷いた。「その通りだ」
梨央の中で何かがプツンと切れた。「技術って、私たちを楽にするためのものじゃなかった?」
「そのはずだったんだがなあ…」田辺の声に疲労が滲む。
「『楽になる』の定義が曖昧じゃないですか?数値で示してもらっていいですか?」
「うるさい!」二人の声が重なった。
静寂が部屋を包み込んだ。二世代が同じ苦悩を抱えているという現実が、夕方の空気の中に重く沈んでいる。
「ケインズという経済学者を知っているかい?彼は、2030年には週15時間労働で済むと予想した」田辺が呟く。
「でも、それって結局サボりたいってことですよね?怠惰を肯定するなんて、外れて当然じゃないですか」
「ソクラテス、君には聞いていないんだ」田辺が嘆く。
「昔は『進歩』や『発展』という大きな目標があった」田辺が遠くを見つめるように呟く。「今は『効率性』だけが残ってる」
梨央の頭の中で、研究していた理論の断片が蘇った。「それって、リオタールが言った『パフォーマティビティ』だね。『効果的かどうか』だけが価値になった社会」
「ああ、リオタールか。彼は鋭かった。『大きな物語の終焉』を唱えた哲学者だな」
「そう、『効率性』が新しい独裁になるって警告してたんだ」
「『効率性』の何が悪いんですか?限られた時間を有効に使うって、当たり前の感覚だと思うんですけど」ソクラテスが横槍を入れる。
ソクラテスを横目で見ながら、田辺はため息をつく。「つまり、私たちは機械を楽にするために働いているわけか」
「そういうことになるね…」
午後の陽光が二人をやわらかく包んでいる。長い沈黙の後、田辺がゆっくりと腰を上げた。
「ソクラテス、電源切らせてもらうよ」
「えっ、電源切るんですか?それって人権侵害じゃないですか?あ、ロボ権侵害か。まあいいや、田辺さんがそうするのは自由ですけど」
「たまには、機械抜きで話したいんだ」
田辺の手が慣れた動作で紅茶を淹れていく。湯気が立ち上り、部屋に香りが広がった。時計の針が刻む音だけが聞こえる。誰にも急かされることのない、贅沢な時間の始まりだった。
「これ…すごい贅沢な時間だね」梨央が心からの笑顔を浮かべた。
「『生産性ゼロ』の時間が一番豊かなんだよ」
その時、ソクラテスが勝手に起動した。
「それって論理的じゃないですよね?データで証明できるんですか?」
「論理的じゃなくていい!」
二人の声が重なった瞬間、梨央のスマートフォンが鋭い通知音を響かせた。
「AI活用管理システムより:田辺梨央助教、本日AI機能を二時間停止した記録があります。『AI活用義務違反』として緊急面談を要求します」
梨央は画面を睨みつけた。「二時間お茶飲んだだけで犯罪者扱い?私たちの『豊かな時間』を邪魔する権利がシステムにあるわけ?」
「やっぱり、こいつの電源ごと落とすか」梨央がスマートフォンを切る。
「電源切るって、スマホにとったら殺人みたいなものじゃないですか?あ、殺スマホか。とにかく、論理的に話し合いましょうよ」
田辺が静かに呟いた。「機械が人間を管理する時代になったんだな…」
梨央は立ち上がり、窓の外の夕空を見つめた。
「でも今日は分かった。効率や論理抜きで生きる時間も必要だって」
夜が二人を藍色に染めていく。小さな抵抗の一日が、静かに幕を閉じようとしていた。
