【短編小説】まあ、なんとかなるよ。心配すんな。
氷河期が、訪れた。
いや、訪れたのではない。作ったのだ。
陸田慎也は乾杯のグラスを掲げた。言葉は種だった。蒔けば不安が育つ。彼が二年前に発明した「就職氷河期」という五文字が、今ではこの国の春を凍らせている。
リクコネ社の会議室に響く拍手が、氷のように冷たく聞こえる。流行語大賞受賞の祝賀会。陸田の言葉が賞を取った。
「素晴らしい成果ですね、陸田さん」
部下の一人が微笑んだ。陸田も、そっと微笑み返す。素晴らしい、確かに。たった五文字で、何百万人もの大学生を不安にさせた。
「次のキラーワードを考えましょう」
陸田はホワイトボードにマーカーを走らせる。
「学生時代に力を入れたこと」と書いて、その下に「ガクチカ」と記した。
「親しみやすいですね」「学生は略語が好きですから」
そうだ、と陸田は思う。重いものを軽く見せる。それが言葉の、小さな魔法だ。「学生時代に頑張ったこと」では重すぎる。でも「ガクチカ」なら、まるでお菓子の名前のようだ。
今年の梅雨は、冷たかった。
陸田は母校の東都大学にいた。就職ガイダンスを開く、その打ち合わせのために。
政経学部の応接室は、陸田の記憶よりも古びて見えた。城ノ内修平教授が重い表情で座っている。国際政治学の権威で、今年から就職委員を務めているらしい。
「陸田さん」
城ノ内は静かに口を開いた。穏やかな声だった。
「率直に申し上げます。あなた方のやっていることは、教育の破壊です」
陸田は苦笑した。現実を知らない学者。
「先生、現実をご覧になってください」陸田は丁寧に答える。
「企業は即戦力を求めています。学生はその要求に応えなければならない」
「即戦力?」城ノ内の声に怒りが籠もった。
「学生たちは学ぶために、ここにいる。知識に触れ、考える力を育て、一歩ずつ、人間として歩んでいくために」
「それで就職できますか?」陸田は首を傾げた。
「論文で面接を突破できますか?」
「あなたは」城ノ内が頭を掻いた。
「学問を何だと思っているのですか」
「学問ですか」陸田は眉を上げる。
「趣味のようなものです。実社会では通用しません」
「実社会」城ノ内が呟いた。
「アメリカでは学業成績を、ヨーロッパでは専門性を評価します。在学中に就職活動をさせるなど、世界に類を見ない愚行です」
陸田は深いため息をついた。この手の理想主義者は、本当に疲れる。
「ここは日本です」陸田は冷静に答える。
「日本の企業は、そんなものを求めていません」
「それがおかしいと言っているのです」城ノ内の声が鋭くなる。
「あなた方の作った『ガクチカ』という言葉。学生たちは自分の経験を商品として整理し始めています。論文を書くより先に、自分を売り込むことに必死になっている」
「それの何が悪いのですか」陸田は答える。
「自己分析は大切です」
「学生は商品ではありません」城ノ内が机を叩いた。
「人間です。考える存在です」
「考える?」陸田の口元に笑みが浮かんだ。
「先生、学生は何を考えているとお思いですか?」
沈黙が流れた。陸田は続ける。
「就職のことです。将来のことです。どの会社に入れるか。どれほど稼げるか。そればかり考えています」
「それは、あなた方が不安を煽るからです」城ノ内の声が掠れる。
「違います。現実です」陸田は首を振った。
「陸田さん」城ノ内の声がまた鋭くなった。
「あなたは、学問に何の価値も見出していないのですか」
陸田は少し考えた。学生時代の自分を思い出す。詩を書いていた頃の、青臭い理想を抱いていた頃の自分を。
「実社会とは企業社会です」陸田の声に確信が宿る。
「利益を生み出し、経済を回し、社会を支える場所です。そこでは、哲学も文学も役に立ちません」
城ノ内が深く息を吐いた。
「あなたは」城ノ内がゆっくりと立ち上がる。
「人間の尊厳というものを、理解していますか」
「尊厳?」陸田も立ち上がった。丁寧さが剥がれ落ちていく。
「先生、理想論はもう結構です」
「理想論?」
「そうです」陸田の声が鋭くなる。
「学生は現実を生きなければならない。就職しなければならない。尊厳で飯が食えますか?」
城ノ内の顔が赤く染まる。
「大学なんて」陸田はなお止まらない。
「ほとんどの学生にとっては就職予備校でしょう」
「君は…」城ノ内の声が怒りに満ちた。
「君は教育を何だと思っている!」
「現実への適応です」陸田はきっぱりと言った。
城ノ内が崩れ落ちるように椅子に座った。
「失礼します」
陸田は頭を下げて、応接室を出た。
廊下を歩きながら、風が抜ける気分を味わう。
翌日の会議で、陸田は新企画を発表した。
「『フレッシュマン・キャリア・ナビ』です。大学一年生向けの就職準備プログラム」
「さすがに一年生は早すぎるのでは」
部下の一人が言った。陸田は首を振る。
「だからこそだ。早期から意識を植え付ける。思考が固まる前に、現実を教えこむ」
二か月後、陸田は大学近くの書店にいた。
『一年生から始めるキャリア戦略』という新刊の売れ行きを確認しに来たのだ。
「申し訳ないんですが」
書店員が困った顔をしている。
「全然売れてないんです」
陸田は就活本のコーナーを見回した。そして、小さな張り紙に気づいた。
「就活する前に勉強しろ」
手書きの文字だった。別の棚にも貼ってある。
「思考停止するな」
また別の場所に。
「君の価値は企業が決めるものじゃない」
「毎日剥がしてるんですが」書店員が言った。
「また貼られるんです。いつも違う人で」
陸田が張り紙を見つめていると、大学生らしい青年が現れた。手には新しい紙片を持っている。青年は陸田に気づかずに、棚の隅に張り紙を貼った。
「君」
陸田が声をかけた。青年が振り返る。
「君がやってるのか」
「はい」青年は臆することなく答えた。
「でも一人じゃありません。毎日、仲間が増えてます」
青年は佐藤雅人と名乗った。法学部の一年生だという。
「なぜそんなことをする」陸田が尋ねた。
「簡単です」佐藤は穏やかに答える。
「僕たちは勉強しに大学に来たからです」
「そんなものが、金になるのか?」
「わかりません。でも、価値のあるものだと思います」
陸田は書店を出た。空に黒い雲が広がっている。
雷が鳴り、大粒の雨が降り始める。
陸田は舌打ちをした。ずぶ濡れになって駅へ向かう。
夏だというのに、陸田は震えていた。
佐藤の後日談はこちら
