【短編小説】誰が語るのか、誰が沈黙するのか
霞ヶ関の夕闇が、会議室の硝子を染めていく。
田辺誠一は資料の束を見つめたまま、ペンを握る手に力を込めた。机を囲む八人の視線が、彼の背中に突き刺さる。
「城ノ内教授の予測モデルについてだが」
山岡部長の声が、沈黙を切り裂いた。
「E国崩壊までの的中率はほぼ百パーセント。しかし、教授が『歴史は終わらない』という論文を発表してから、精度が著しく低下している」
若手の分析官たちが、一斉に資料をめくる。パラパラと乾いた紙音が会議室に響く。
「それでも、このモデルを政策決定の根拠とするべきでしょうか」
山岡の目が、田辺を捉えた。
「田辺君、君の見解を聞かせてもらおう」
田辺は顔を上げた。窓の向こうで、国会議事堂のシルエットが暮れなずんでいる。
「予測は道具です。道具が現実を決定してはいけません」
若手たちの間に、微かなざわめきが走った。
「しかし」山岡の声が一段と低くなる。「我々に求められているのは、政治的判断の根拠だ。揺るぎない分析だ」
「数字に絶対はありません」
室内の空気が凍りついた。
「田辺君、君は分析官として十五年働いている。その結論が『絶対はない』なのか?」
田辺は立ち上がった。
「だからこそ、です。誰の声を拾い、誰の声を捨てるかを、私たちが決めている。その重みを忘れてはいけません」
会議は、重苦しい沈黙の中で終わった。
廊下で、山岡が田辺の肩を叩いた。
「田辺君、少し話そう」
無人の応接室。革張りの椅子が、暗闇の中で黒く光っている。
「君の気持ちは分かる」山岡がカーテンを閉めた。「私も若い頃は、そう考えていた」
「今は違うのですか?」
「現実が教えてくれるんだよ」山岡が振り返る。「F国の件で、上からの指示が来ている。政権に有利な分析を求められている」
「それは分析ではありません。作文です」
「そうだ」山岡の声に、諦めが滲む。「しかし、それが我々の仕事だ。拒否すれば、君だけでなく、部署全体が飛ぶ」
「考えておいてくれ」山岡が部屋を出ていく。「来週までに、F国分析の初稿を頼む」
電車の中で、田辺は古い記憶を辿っていた。
大学時代、彼は哲学を専攻していた。フーコーに夢中になり、卒業論文は『パレーシア』についてだった。
指導教官は言った。「君の問いは正しい。しかし、問うだけでは世界は変わらない」
だから田辺は、官僚になった。知識を権力に近づけることで、世界を変えられると信じて。
自宅のマンション。妻の和子が、遅い夕食の準備をしていた。
「おかえりなさい」
息子の裕一は、居間で本を読んでいた。大学で哲学を学んでいる。
「何を読んでるんだ?」
「ミシェル・フーコー。『知と権力』について」
田辺の心臓が、小さく跳ねた。
「面白いか?」
「うん。大学の先生が言うんだ。『真実を語る勇気』について。『パレーシア』って言葉があるんだって」
田辺は息を止めた。
「先生は何て言ってるんだ?」
「真実を語るには、三つの条件がいるって。それが本当に真実であること。語る者がそれを心から信じていること。そして、語ることでリスクを負うこと」
和子が声をかけた。
「ご飯よ」
三人の食卓。鯖の味噌煮と、筍の煮物。
「お父さんは、仕事で真実を語ってるの?」
裕一の問いに、田辺は箸を止めた。
「難しい質問だな」
「でも、大切な質問でしょ?」和子が微笑む。「私たちは、あなたが誇れる仕事をしていると信じてるから」
深夜、田辺は書斎にこもった。
F国分析の資料が、机上に散乱している。どれも山岡が求める「政権に有利な結論」を導くものではない。
『F国情勢分析報告書(初稿)』
カーソルが点滅している。
午前三時。田辺は決断した。
翌朝。
「読ませてもらった」山岡が報告書を置く。「これでは使えない」
「事実を書きました」
「事実は一つじゃない。選択された事実もある」山岡が立ち上がる。
「間違った判断をしてほしくないだけです」
山岡の目に、怒りが宿った。
「田辺君、我々は真実を追求する学者ではない。政策を支える技術者だ」
「技術者なら、なおさら正確でなければなりません」
「最後に聞くが、君は書き直すつもりはないか?」
田辺は立ち上がった。
「ありません」
翌月、田辺は政府広報室への異動を言い渡された。
真実を探る者から、政権の都合を語る者へ。
その夜、田辺は家族に異動の件を話した。
「広報室って、重要なお仕事ね」和子が微笑む。
裕一は何かを感じ取ったようだった。
「お父さん、複雑そうだね」
「仕事には、いろんな側面があるんだ。表から見えることと、裏で起きていることが、必ずしも同じではない」
「それって、『パレーシア』と関係ある?誰が語って、誰が沈黙するかって」
田辺は驚いた。
「そうかもしれない」
和子が不安そうに言った。
「あなた、本当に大丈夫?」
田辺は妻の手を握った。
「君たちがいるから」
三ヶ月後。
田辺は政府広報室で働いていた。記者への説明資料を作成し、報道発表の文章を練る。彼が書く言葉が、メディアを通じて国民に伝わっていく。
ある日、F国関連の報道発表資料の作成を依頼された。田辺が拒否した分析を基に、政府の方針が決まったのだ。
田辺は資料を作成した。自分が拒んだ嘘を、今度は自分が発信する立場にいる。
その夜、息子から電話がかかってきた。
「お父さん、今度の授業でフーコーについて発表することになったんだ」
「そうか」
「真実を語る勇気について調べてるんだけど、お父さんはどう思う?」
田辺は答えに詰まった。
「難しい問いだな」
「でも、大切な問いだよね」裕一の声に、真摯さがあった。「僕、お父さんの大学時代の論文、図書館で読んだんだ。すごいと思った」
「ありがとう」
「お父さんは今も、その問いを持ち続けてるの?」
田辺は窓の外を見つめた。
「そうだな。答えは見つからないが、問いを持ち続けることは大切だと思う」
「僕も、そう思う」裕一の声に、決意が宿った。「実は、教師になろうと思ってるんだ。高校で倫理を教えたい」
田辺は驚いた。
「教師に?」
「うん。お父さんの論文を読んで思ったんだ。僕には、分析はできないかもしれない。でも、学生に問いかけることはできる」
「それは…素晴らしいことだ」
「答えなんて、見つからないよ。でも、問い続けることを教えたい」
電話を切った後、田辺はペンを握った。
今度は、誰のためでもない。自分自身への問いかけとして。
『誰が語るのか、誰が沈黙するのか—ある広報官の独白』
外では、新しい風が吹き始めていた。答えは見つからないが、問い続けることに意味がある。
田辺はそう信じていた。
