【短編小説】知識は水だ。独占してはいけない。
「新宿駅って何ですか?」
「は?知らねーんだったら教えてあげよう!」
「知識は…水だ。独占してはいけない!」
漫才師の放ったフレーズに、客席はどっと沸いた。
だが、水野陽介はテレビの前で、箸を止めたまま笑えなかった。
三十五歳。製薬会社の研究員。
希少疾患の治療薬を追い続け、ようやく効果のある化合物を見つけたところだった。
だが、その成果を待っていたのは、会社の戦略だった。
「水野君、君の研究は素晴らしい。だが、もう一つ頼みがある」
上司の真島は、穏やかな口調で言った。
「低コスト製造法のデータ、社外秘にしてくれ。特許料を維持するためだ。わかるね?」
陽介は、ただ頷くしかなかった。
分かっていた。企業は慈善団体ではない。
だが、研究者として、何のために薬を作ってきたのか。胸の奥で何かが軋んだ。
臨床試験が始まり、彼は患者のひとりに惹かれていった。
六十歳の田辺。元高校の倫理教師。穏やかな語り口と、どこか達観した眼差しが印象的だった。
「今日の調子はいかがですか?」
「体よりも、心配なのはあなたの方ですよ」
陽介は、つい苦笑しながら、自分の葛藤を打ち明けていた。
薬の価格、隠されたデータ、届かぬ希望――
田辺は静かに頷いた。
「古代ギリシャの哲学者、タレスをご存知ですか?彼は『万物の根源は水』と言いました。
水は、形を変えながらすべてを潤します。あなたの知識も、そうであってほしいですね」
その言葉は、陽介の中で静かに波紋を広げた。
彼は図書館に足を運び、哲学の棚を眺めた。手にしたのは『知と権力』。
著者、ミシェル・フーコー。知識がいかにして体制の中で支配の道具となるかを説いていた。
次の検査日、田辺はこう語った。
「タレスとフーコー。一見正反対のようですが、どちらも問いかけています。
知識とは何か、そして、それをどう使うべきか、と」
雪の降る週末、公園のベンチに座り、陽介はひとり考え続けた。
自分にできることは何か。すべてを暴くのではなく、せめて一滴だけでも流すことはできないか。
数日後、彼は決断した。
田辺の医師である河野に、説明の中でさりげなくヒントを織り交ぜた。
論文で読んだ、ある酵素の挙動について。代替原料の話。
河野は敏感に反応し、検査後に声をかけてきた。
「水野さん、さっきの話、詳しく聞いても?」
「ええ、もちろん。あくまで一般論ですが…」
陽介は慎重に、しかし確かに情報を伝えた。
河野は大学の研究者とも連携していた。
数ヶ月後、大学から「独自開発の低コスト製造法」が発表された。
会社は警戒したが、特許の範囲を巧妙に外れていた。
臨床試験の最終日、田辺は穏やかな笑みを浮かべて言った。
「あなたの知識は、ちゃんと流れましたね。
タレスも、フーコーも、きっと微笑んでいるでしょう」
陽介は初めて、言葉ではなく心で頷いた。
半年後、陽介は別の製薬会社で働いていた。
より柔軟で、現場を重視する職場だった。
その年の年末、テレビから再びあのフレーズが流れた。
「知識は…水だ。独占してはいけない!」
陽介は箸を止め、今度は笑った。
