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20000724 廃藩置県

 長い間、廃藩置県$${^{*1}}$$を勘違いしていた。明治維新によって旧国名を都道府県名に変えたことだと思っていた。この勘違いの根底には一つの国に一つの藩しかなかったと思っていたことにある。そして旧国界と都道府県とが多少違う$${^{*2}}$$のは合併や分裂などがあったからだろうと思っていた。

 廃藩置県は「$${^{*3}}$$」という旧幕府形式の行政区画を新政府の中央集権化のためにその区画を「県」と改めたもので「国」とは関係がない。それでは「藩」と「国」との関係はどうなっていたのだろうか。

 「藩」とは徳川家から与えられた大名の土地と支配機構のことで、それを「藩」と言い出したのは江戸中期頃からだったらしい。しかし江戸時代には「藩」という言葉自体は公式な呼称ではなかった。公称として行政区画を指したのは明治元年から明治4年の廃藩置県が実施されるまでの間だけであったようだ。

 「国」とは大化改新で国郡制が採用された際、地方行政区画の最大単位として設定された。その後、分割や併合を繰り返していったが、平安時代の初期に66国に落ちつきそれ以降、明治維新まで変化はなかった。しかし大名領国制$${^{*4}}$$の確立により江戸時代には行政区画としての機能は全く失っていた。
 明治元年には国郡制が一部復活して陸奥を「磐城」「岩代」「陸前」「陸中」「陸奥」に、出羽を「羽前」「羽後」に分割し、翌年には蝦夷地を「北海道」$${^{*5}}$$とした。しかしこの時の「国」は単なる区域を指し示す名称であるだけで地方自治行政区画としての意味はなかったようである。
 そして廃藩置県によって府県制がしかれると区域名としての「国」という公称も完全に消失した。

 明治元年に新政府は、幕府の直轄地の主要な土地には「府」その他旗本領には「県」を行政区画として設置した。この時、箱館、東京、京都、大阪、奈良、度会、甲斐、新潟、長崎、神奈川の十府が設置されたが、後に東京、京都、大阪の三府になった。県は22県設置された。大名領国制度に基づく「藩」はそのまま存続しているので府県藩の三体制になった。

 翌2年版籍奉還$${^{*6}}$$により「藩」は藩主の領土ではなくなり、中央集権国家の地方行政区画となった。しかし府県藩の体制はそのままであった。

 そして明治4年廃藩置県により「藩」は「県」と名前を変えた。当初300余の県があったが同年末までには3府72県に統合された。最終的に府県界を旧国界に収斂させたのは律令制$${^{*7}}$$の影響だろうか。

 新政府は全国の藩を廃したにも拘わらず、翌明治5年に沖縄に琉球藩を設置した。

*1 雑録論集をゆく 新政府と廃藩置県
*2 旧国名・都道府県名対照図
*3 明治維新と新政府 第2章 中央官制機構の変遷
*4 江戸三百藩HTML便覧
*5 19990911 都「北海道」府県
*6 版籍奉還
*7 KanseiTaikan_Index 律令官制の沿革

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