三星堆遺跡と『長江文明』と渡来人・天皇の謎
4517文字(漢文翻訳代150円投げ銭、なにとぞ宜しく)
天皇家は「姫氏」を名乗っていた時期がある。「姫氏」=周の続きではあると、「弥生時代の銅鐸は中国長江文明の銅鐘が起源」の続きです。( ̄◇ ̄;)
三星堆遺跡

三星堆遺跡は、長江文明に属する古代中国の遺跡の一つ、1986年に中国の四川省徳陽市広漢県の三星堆で発見された。
概要
紀元前2000年頃、もしくはそれ以前と考えられる極めて古い時代に属する三星堆遺跡とその文化は、約5000年前から約3000年前頃に栄えた古蜀文化のものである。三星堆遺跡自体は、1929年の春に当地の農民が溝を掘っていた際に玉器を見つけたことで、1931年にイギリス人牧師であるヴィヴィアン・ヘンリー・ドニソーンによって発見されていた。しかし、長く本格的な発掘はなされず、1980 - 1981年に、初めて四川省文物委員会等により本格的な発掘調査が行われて、大規模な住居跡が発見された。以後、発掘が継続して行われ、1985年10月までに、東・西城壁跡が発見されて、本遺跡が古蜀王国の都城跡と見られるようになった。さらに1986年には、本遺跡の上限が約5,000年前と見られるようになった。また、各種の貴重な玉器・金器・青銅器等が出土した。
発掘調査はさらに継続され、1996年秋には日中合同の磁気探査などの科学的調査が行われた。2005年に基本的な発掘調査を終え、現在整理研究中である。以上の発掘調査で、本遺跡は東城壁跡約1,100メートル・南城壁跡約180メートル・西城壁跡約600メートルが確認され、北を鴨子河とする城壁都市であることが分かった。三星堆遺跡(三星堆文化)は新石器時代晩期文化に属し、上限を新石器時代晩期(紀元前2800年)とし、下限を殷末周初期(紀元前800年)と、のべ2000年近く続いた。
4期に分かれ、第1期は4,800 - 4,000年前で、龍山文化時代(五帝時代)に相当し、石器・陶器のみである。第2・3期は4,000 - 3,200年前で、夏・殷時代に相当し、青銅器・玉器が出現し、宗教活動が盛んとなり、都市が建設される。第4期は3,200 - 2,800年前で、殷末・周初期に相当し、精美な玉器・青銅器が製作され、大型祭壇・建築が築かれる。遺跡地区は鴨子河南岸に沿って東西5,000 - 6,000メートル、南に2,000 - 3,000メートルに広がり、総面積約12平方キロメートルで、全体が保護区となり、城壁跡内を含む重要保護区の面積は6平方キロメートルである。
三星堆遺跡からは異様な造形が特徴な青銅製の仮面や巨大な人物像が多数出土している。三星堆の遺跡および文物の発見は 3・4千年前の中国の長江文明の古蜀王国の存在と中華文明起源の多元性を証明する有力な証拠となった。
考古遺物
出土する考古遺物は全て三星堆博物館が所蔵している。
青銅人頭像

青銅製の頭部および頸部で構成された人頭像は、様々に異なる造形物が数多く出土している。
貼金銅人頭像

「戴金面罩銅人頭像」とも称する。金箔で出来た金面を被せた青銅人頭像のことで、様々に異なる造形物が数多く出土している。三星堆文化の代表的な考古遺物として紹介されることが多い。頭頂の形によって「平頂貼金銅人頭像」「丸頂貼金銅人頭像」などと呼び分ける。
青銅縦目仮面

世界最大の青銅製仮面。異形を呈する巨大な青銅製の仮面であり、三星堆文化の代表的な考古遺物の一つ。中国語名は「青铜纵目面具(青銅縦目面具)」、日本語名は「青銅縦目仮面」「縦目青銅仮面」「青銅縦目面具」など。幅138センチメートル、高さ64.5センチメートル。
突出した瞳孔は長さ16.5センチメートル、径9センチメートル。額の中央に穴が開いているが、後述する「青銅戴冠縦目仮面」に見られるような額飾り(冠)が取り付けられているのが本来の形で、それが失われたものと考えられている。口は微笑みをたたえている。1986年に二号祭祀杭より出土した。二展庁展示品。
目が突出しているという異様な特徴から、“目が縦”だったと言われる古代蜀の王の蚕叢だとする説が中国で有力である。
青銅戴冠縦目仮面

青銅神樹 青銅大立人像

検索すれば、まだ沢山種類があるよ。
【まとめ】長江文明の古蜀文化の三星堆遺跡は、
なぜか宇宙人。
目が突出しているという異様な特徴から、“目が縦”だったと言われる古代蜀の『王の蚕叢』だとする説が中国で有力である。
Wikiよりこっちの文の方が分かりやすい。
蜀国と三星堆遺跡は同じ場所・・・

古蜀(こしょく)とは古代の蜀にあった国である。
東晋時代の地誌『華陽国志』にはその歴史が詳しく記されているが、司馬遷の『史記』では、紀元前316年に秦の将軍・司馬錯(しばさく)に滅ぼされたということが記されるのみとなっている。
ここでは古蜀の歴代王について解説しよう。
①第一代蜀王 蚕叢(さんそう)
蚕叢(さんそう)は、古蜀を建国したとされる人物である。
『華陽国志』には、「周王が衰退してから最初に王を名乗った」と記述がある。
彼は養蚕家であったため、後に神話の神「蚕神」と呼ばれるようになった。

そして『華陽国志』には驚くべき記述が残されている。
「蜀先称王、有蜀侯蚕叢其目縦、始称王」
翻訳「先の蜀と称する王、蜀ある侯の蚕叢のその目は縦、王を始め称する」
なんとこの王様・蚕叢(さんそう)は「目が縦」だったとういうのだ!
目が縦と言われてもどういった状態なのかは文字だけではイメージしにくい。そして、あまりに異様な記述なのでこれまでは空想の産物とされてきた。
しかし、この蚕叢を模したとされる仮面が三星堆遺跡から発見されたのである。

まるで目がカニのように前に向かって飛び出しており、これが縦目の由来と考えられている。
『華陽国志』は、この異様な状態を「目が縦」と表現したのだろう。
この異様な特徴と記述が合致することから、この仮面は蚕叢を模したとする説が有力となり、さらに古蜀が現実に存在したと考えられるようになった。
まるで宇宙人のような姿であるが、古代の突飛な神話や言い伝えが後世で事実だったと判明する例も多く、蚕叢は本当にこのような目をしていたのかもしれない。
西暦355年、中国東晋の常璩によって編纂された『華陽国志』原文
三星堆遺跡の古蜀文化の長江文明とは?日本Wikipedia
長江文明は、中国長江流域で起こった複数の古代文明の総称。黄河文明と共に中国文明の代表とされる。文明の時期として紀元前14000年ごろから紀元前1000年ごろまでが範囲に入る。
20世紀前半に黄河文明の仰韶文化が発見されて以来、黄河流域で多くの遺跡が見つかったことで中国の文明の発祥は黄河流域であり、その後次第に長江流域といった周辺地域に広がっていったとの見方が支配的であった。
しかし1973年・1978年の発掘調査で発見された浙江省余姚県の河姆渡遺跡により、この説は覆される。河姆渡遺跡は紀元前6000年から紀元前5000年ごろのものと推定され、大量の稲モミなどの稲作の痕跡が発見された。稲作を行っていた事からその住居は高床建物であった。

左:復元された高床倉庫(佐賀県吉野ヶ里遺跡)
右:「屋根倉」形態で復元された大阪府池上・曽根遺跡の復元高床建物。
明らかに黄河文明とは系統の異なるものであり、それまでの「中国文明すなわち黄河文明」という当時の定説を大きく覆す事になった。
初期段階より稲作が中心であり、畑作中心の黄河文明との違いからどちらの農耕も独自の経緯で発展したものと見られる。長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。
中流域の屈家嶺文化(紀元前3000年? - 紀元前2500年?)、下流域の良渚文化(紀元前3300年? - 紀元前2200年?)の時代を最盛期として、後は衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化が移植されている。黄河流域の人々により征服された結果とも考えられている。
河姆渡遺跡からは玉で作られた玉器や漆器などが発見されており、また呉城文化(紀元前1400年? - 紀元前1000年?)からは磁器が発見されている。中国文化の重要な一翼を担うこれらの文物の源流がここから出たのではないかとする説もある。
これらが後の楚・呉・越に繋がったと考えられるが、どのような流れをたどって繋がるのかは未だ解らない。本格的な発掘が始まってから30年程度しか経っておらず、発見されたものの量に対して研究が追いついていないのが現状である。
四川盆地では長らく文明の発見が無かったが、1986年に四川省徳陽市広漢県の三星堆遺跡から大量の青銅器などが見つかり、一気に注目されるようになった。
四川は地形的に他の地域と途絶しており、そこで発見された文明は黄河・長江とも異質な文明を発展させていた。そこで四川文明と分類されることもある。
三星堆の特徴として怪異な面が多数発掘されることがあり、青銅の人像の顔に被せられた黄金面も発掘された。古代にあったとされる蜀の国だと考えられる。この蜀国は『史記』ではほとんど登場せず、まだ中華文明の視野の外の地域であった。唯一、秦の恵文王の紀元前316年に司馬錯によって滅ぼされて、秦の版図に入ったことが記される。
「魏志倭人伝」と養蚕
「魏志倭人伝 蚕」で検索

Silkworm - 九州大学(KYUSHU UNIVERSITY)
「魏志倭人伝」の中には倭人の生活について触れ、その中に「紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜」の文字を見ることができます。 カラムシ(紵麻)を植え、養蚕を行い、細紵(さいちょ=麻布)、縑緜(けんめん=絹布)を得る暮らしぶりが伺えます。 生きていけない。 カイコは人間によって完全家畜化された昆虫で
歴史
日本書紀(六) 一部抜粋
持統天皇七年三月丙午条詔。令天下勸殖桑紵。梨栗。蕪菁等草木。以助五穀。
翻訳:日本書紀(六) 一部抜粋
持統天皇七年の三月の丙午(17日)の日の詔(命令)。天下に桑を植え麻布の令。梨と栗。蕪などの草と木。これらは五穀を助ける。

弥生時代の銅鐸は中国『長江文明』の銅鐘が起源


もう一度、日本のWiki:長江文明
長江文明を築きそれを受け継いでいる正確な集団は判明していないが、楚・呉・越がそれに相当すると考えられ、また現在の四川省涼山イ族自治州に住む少数民族イ族がその末裔ではないかと考察する者もある。
イ族ではないと思う
古代雲南の「滇国」を調べていて、三星堆遺跡とイ族を知った。
このnoteのラスト三分の一はその話です。

三星堆遺跡は生贄にしている漢人なのか、生贄にされているイ族なのかもう少し確認したいところ。確定はもっと詳しくなってから。まだ出さなければいけない情報があるし、まだ頭の中で整理されていない・・。
こちらも宇宙人ネタのnote!( ̄◇ ̄;)
おわり
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