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6仏教を広めたとされるアショーカ王の平和思想

2024年7月14日修正➡︎2025年6月16日また修正
9098文字

世界連邦SDGsの謎解きの理解に役に立つだろうと、昭和の書籍の難解な文をまた読みやすく修正しました。憲法改正問題が騒ぎですが、戦前の天皇独裁政治憲法は論外としても戦後の平和憲法も罠だった。昭和の平和主義、9条守れ連呼は世界連邦SDGsへのため。

アショーカ王はユダヤ人だな。父のヒンドゥサーラ王はユダヤ人の女のハニトラに引っかかって作った子だろう。


はじめに

東洋学術研究(1987) 通巻113号(26巻2号) 089
アショーカ王と平和思想 PDF

このPDFの著者は増原良彦さん(宗教文化研究所所長)で、コンビニなどで仏教を広く浅く広めたひろさちやさんの本名です。

ひろさちや

ところがこのPDFでは、
仏教は「偽りの平和」の象徴として使われてきた。つまり、仏教は権力の手先である。仏教はその始まりから権力の走狗であり、民衆の抑圧に加担してきた。

とまで分かっている!(°_°)

本当に仏教を研究すれば、その答えにたどり着くはずだが、どのような気持ちで沢山の仏教紹介本を書いてたんだろうね?(°_°)


アショーカ王と平和思想 

平和な社会はすでに平和であるため、「平和思想」にとっては不毛の土壌となる。逆に戦乱の時期には、「平和思想」に平和をもたらす力はない。実は「平和思想」に限らず、あらゆる思想には現実を変更させる力はない。

人類がいくら楽観主義になっても、戦乱を収拾できるのは大きな武力である。戦乱の時期にあって待望されるのは、その武力であって「平和思想」ではない。「平和思想」は、戦乱の時期の思想としては敬遠される。

平和な状態にあっても戦乱の時代にあっても不毛なものーーそれが「平和思想」であり、そこに「平和思想」のパラドックスがある。

マウリヤ朝

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南インドを除く、これだけの地域を戦争で征服した。

仏教の開祖の釈迦がいたとされるインドの時代は、小国の分立状態だった。カープル峡谷からゴダバリ河にかけて16国が成立し、互いに対立と抗争を繰り返していた。その後、16大国が次第に統合されて4大国となり、釈迦が入滅したとされる頃には、マガダ国とコーサラ国の2大国が対立する情勢になっていた。つまり、釈迦の時代のインドは、勢力均衡によって平和が保たれていたのである。

時代背景を考慮せずに論ずるのは、何事においても非常に危険である。

それでは、仏教、というより釈迦に「平和思想」はあるのだろうか?実を言えば、釈迦には「平和思想」はない。なぜなら、釈迦の時代は平和思想を必要としていなかったからである。

彼の思索は徹底して非政治的な問題、つまり個人的な魂の問題に向けられている。それは個人の「心の平和」であって、社会の平和を目指す「平和思想」ではなかった。したがって、釈迦の仏教思想のオリジナルには「平和思想」はない。

大思想家は、本質的に「時代の子」である。時代が直面する思想問題に取り込んでこそ、大思想家たりうるのだ。もし釈迦の時代が「平和思想」を要請していれば、釈迦はそれに応じていただろう。

小国分立と勢力均衡の時代背景において求められている思想は、むしろ「発展の哲学」や「覇道の思想」である。勢力均衡は一時的な現象であるから、その中では誰もが覇者になろうとする。それを権威づけるのが、時代の流れに沿った仕事である。釈迦の思想には、そのような覇道の権威付けはない。


マウリヤ王朝の始祖チャンドラグタ王

チャンドラグタ王

アショーカ王は、マウリヤ王朝の第3代の王であった。
マウリヤ王朝の始祖はチャンドラグタ王。彼は前317年ごろ、インドでの西北で拳兵し、同地域のギリシアの軍事勢力を一掃し、兵をインド中原のマカダ地方に進めた。そして、当時のマガダ地方を支配していたナンダ朝の軍勢を破り、自ら国王となりマウリヤ朝を創始した。

このチャンドラグプタ王を補佐したのは、宰相であり軍師であるバラモンのカウティリヤであった。カウティリヤには、政治・経済・軍事を論じた有名な「カウティリャ実利論」がある。

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チャンドラグプタ王は退位後、王位を子息のビンドゥサーラに譲った。そして、ビンドゥサーラの王位を継いだのはアショーカ王だが、彼はすんなりと王位についたわけではなかった。

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二代目 ヒンドゥサーラ王

仏教の言い伝えによると、アショーカは太子は父王ヒンドゥサーラに疎まれていた。父王に愛されていないことを知ったアショーカ太子は身の危険を感じ、遠くタクシャシラー(現在のパキスタン北部の地)へ逃れた。一説には、タクシャシラーで起きた反乱を鎮圧させるため、父王がアショーカを危険な地へ・・わざと派遣したとも言われている。

いずれにしても、アショーカ太子とビンドゥサーラ王との間に反目があったことは確実で、その原因は、アショーカのカーストに関する問題だと言われている。アショーカの母は、チャンバー出身のバラモン女性であったとされる。(最高の地位)

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父ヒンドゥサーラは、初代チャンドラグプタが「貧賤の身」であったことから、同様に「卑賤の身」であった。カースト的にはシュードラ(肉体労働者)階級に属していたと思われ、父親よりも母親のカーストが遥かに高かった。

◉チャンドラブクタは「貧賤の身」ではない。2つ説があるが、
バラモン教系の文献ではシュードラ(インドのカーストの中で最下位)の出身であるとされ、
仏教系の文献ではクシャトリア(バラモンに次ぐカースト)の出身であるとされている。

ここでは、仏教系の文献のクシャトリアが説が正しい。ユダヤ人の王子を自ら3人殺したバラモンのカウティリヤが補佐するはずがないから
(古代インドの戦争は、人類とユダヤ人の王朝との戦い)

インドにおいては、その間に生まれた子はアウト・カースト(カースト外の賤民)とされてしまう。

ワシ:シュードラ止まりなんじゃないの??

アウト・カースト、実はこうだった

アショーカ王はアウト・カーストのため、父親にうとまれていた。この逸話で、「バラモン教は差別主義者で、仏教の平等思想は素晴らしい」という、物語として語られるようになった。

仏教を広めたとされるアショーカ王

アショーカの即位後の出来事であるが、大臣たちが彼の命令を無視した。三度に渡って自分の命令が無視されたとき、怒った彼は五百人の首を刎ねた

また、後宮の女官たちが庭園のアショーカの樹(無憂樹)の枝を折り、花を摘んで捨てた時、彼は五百人の女官を焼き殺した・・という逸話がある。これは作り話であると仏教の文献では断りが入れられている。しかし、作り話だとしても、国王の命令を無視する大臣たちがおり、国王を嘲笑するーーこれには断りはない・・・。

無憂樹、ムユウジュもしくはアソッカ。仏教三大聖樹(仏教三霊樹)のひとつ。

アショーカの樹は、その名称からアショーカ王のシンボルであったと思われる。女官たちは、アショーカ王がアウト・カーストであるが故に、これを蔑視していたことになる・・・そのため、アショーカ王は残忍さを発揮した・・・とされるが、これはアショーカは残忍さの性格ゆえに、嫌われており、アショーカの樹の枝を折ったと考えるのが妥当であろう。

アショーカ太子はタクシャシラーの辺境に駐在していた際、父王ビンドゥサーラの病気の悲報を受け、急遽首都パータリプトラへ帰還した。そこで、長兄のスシーマ太子を含む99人の異母兄弟を殺戮し、王位を奪取した。ビンドゥサーラ王には百人の王位継承者がいたとされるが、アショーカ王は彼らを全て殺してしまった。こうしてアショーカ王はマウリヤ王朝の第三代皇帝となった。

残忍なるアショーカーーーしかし、その残忍さは同時に仏教への転向のエネルギーとなったとされ、前半生における残忍さが、後半生の「平和」を引き立て、仏教の平和主義の美しい逸話として広く伝えられている。(^◇^;)


アショーカ王は即位後、祖父が築いた大領土を継承し、さらにインド東南岸のカリンガ国を平定して大帝国を築き上げた。

カリンガ国は、インドの中東部に位置した古代の国で、カリンガ国と、マガダ国マウリヤ朝のアショーカ王との戦争である、紀元前265年のカリンガ戦争の舞台である。この戦争によってカリンガ国はアショーカ王に征服され、マウリヤ朝に服属することになる。

そして、この広大な領土を、中央直下統治と地方総督によって統治される西北・西・東南・南の地方に分け、各地に地方総督を補佐する多数の行政官を送り込んだしかも、アショーカ王は、これらの役人を統制監視するためにスパイを送り、数年ごとに巡回監視官を派遣する制度を儲けている。

アショーカ王は政治(監視)に熱心であった。王は家臣たちに、次のように命じていた。
 
「私が食事中であれ、乗輿の上であれ、あるいはハーレムにいるときであれ、馬場であれ、いつでも、どこでも、上奏官は人民に関する事情を私に報告せねばならない。そうすれば、私はどこへいようと、即座に事務を裁くであろう」


アショーカ王の仏教への帰依

そのアショーカ王が後に仏教に帰依した。
仏教への帰依の動機に関して、2つの伝説が語られている。


○アショーカ太子が王位を得るため異母兄弟を殺害し始めた際、父王の妃スマナーは難を避けてチャンダーラ(アウト・カーストの難民)の村へ逃れた。彼女は身籠っており、その村で男子ニグローダを出産した。ニグローダはアショーカ王の異母兄弟にあたるが、7歳で出家し仏教教団の僧となっていた。

後年、アショーカ王は、パーリブトプラの街を托鉢に歩くニグローダ比丘の姿をたまたま見かけ、感動した。そして彼に帰依し、そして仏教教団に帰依した。


比丘=仏教の坊主のこと。

○もう一つの伝説は、アショーカ王はギリカという凶暴な死刑執行人を雇い、彼のために家を建てて、迷い込んだ者を自由に殺させていたという伝説がある。ある日、仏教僧がギリカの家に迷い込み、地獄の責め苦を受けるが、騒然自若としていてギリカは殺すことができない。ギリカに呼ばれてやってきたアショーカ王は、そこでギリカを殺し、僧に帰依した・・という。この話は仏教界では大変立派とされ、宣伝されている・・・。

カリンガ国への征服戦争

アショーカ王が仏教に帰依した動機、または、きっかけと知られる、史実的に重要なものにはカリンガ国の征服戦争がある。

アショーカ王は紀元前268年頃に即位したと推定されている。即位後10年ほど経った紀元前259年頃、彼はインド東南岸のカリンガ国へ征服戦争を起こした。この戦争はアショーカ王の圧倒的勝利に終わり、マウリヤ朝はカリンガ国を領土として併合した。

その戦争で、カリンガ国の兵士15万人が捕虜となり、他の地方へ移され奴隷とされた。また、捕虜となった10万人はその場で殺害された。戦争で死んだ兵士の数は、この数倍に及ぶと想定される。戦闘員だけでなく、多くの非戦闘員も殺された。

有能な政治家であったアショーカ王は、政治手段としての戦争の有効性を疑った。戦争は、必ずしも最上の手段ではないと悟り、反省したと仏教会では言われている。


そこには計算がある。いくら戦争が悲惨だといっても、戦争を廃絶して国家の経営が成り立たぬようであれば、依然として戦争に頼らざるを得ない。アショーカ王が戦争を絶廃して、仏法による政治に切り替えた裏には、計算があった。その計算の根拠は、例の「マウリヤ王朝の平和」
である。

それがあればこそ、「平和の政治」が可能であったのだ。
 

けれども、実を言えば、「アショーカ王の平和」が可能になったのは、戦争によってマウリヤ朝が平和になったからで、仏教の平和思想によって平和になったのではない。

アショーカ王の「平和思想」

アショーカ王の「平和思想」の、その計算は何であろうか?
 アショーカ王が広めたとされる仏教は、ある意味で平和の教えを説いている。

ーー「我、ののしられたり、我、害されたり、我、敗れたり、我、強縛されたり」という思いを抱かない人は、怨みが静まる。ーーおよそこの世において、怨は怨によって静まることなし。怨を捨ててこそ静まる。これ普遍の真理なり。

ーー誰もが暴力に怯え、死を恐れている。自分の身を基準に考えて、他人を殺すべからず、殺させてはならない。ーー誰もが暴力に怯え、命を大切に思っている。自分の身を基準に考えて、他人を殺してはならないし、殺そうとしてはならない。

ーー生きとし生けるものは、安楽を求める。もし暴力によって危害を加えれば、自分の安楽を求めても、死後にも安楽を得られない。(引用『ダンマバダ』)

たしかにここでは暴力が否定され、『平和』が述べられている。けれども、ここで言われている『平和』は、あくまでも個人の気休めレベルである。

一方、アショーカ王が政治的手段として求めていた「平和」は、国家レベルでの平和であったはずだ。しかし、仏教には国家レベルでの平和に関する教えはない。

彼は仏教を上手く利用した、そう考えたほうが自然である。
とすれば、アショーカ王は別な理由で仏教に帰依していた・・・その別の理由とは何であろうか。


アショーカ王は、カースト的には非常に低い出身。最低のカーストであるシュードラよりも、遥かに差別されたアウト・カーストの出身であったとされる。そんなアショーカ王が、バラモン教に帰依したところで、なんの利点もない。仏教はカースト制度に反対し、カースト制度を否定した例外的な宗教であった。ゆえに、アショーカ王は仏教を選択したとされる。


マウリヤ王朝の平和な時代

アショーカ王はカリンガ国征服戦争のあと、戦争の悲惨さを反省し、二度と戦争を起こさないことを誓ったことになっている。そして彼は、仏教の「ダルマ(法)」によって政治を行おうとした。この征服戦争の勝利後、「ダルマ(法)」を民衆に浸透させるために、領土の各地に「ダルマ(法)」の碑文を刻んだ巨大な石柱を建てた。

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また、国境地方には、多数の「石の碑文」を作っている。
 

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もっとも、アショーカ王は仏教に帰依し、仏教を保護・援助したが、仏教だけを保護したのではなかった。バラモン教、ジャイナ教、アージーウィカ教といった諸宗教にも経済的援助を与えた。その意味では、アショーカ王の宗教の政策は「自由」と「寛容」の精神にもとづいていて、流石したとされる。
 

碑文を読むと、カラクリがあるんだよな。(^_^;)

さて、アショーカ王の「平和政策」であるが、これにはどのような意味があるのか・・・彼は二度と戦争を起こさないことを誓っているが、その誓いの真意はどこにあるのだろうか?

アショーカ王に好意的に解釈すれば、彼は仏教に帰依したがゆえに平和主義者になり、「平和思想」を信奉したーー。だが、この解釈はないであろう。なぜなら、アショーカ王は為政者であり、為政者はいかなる「主義の人」であることは出来ないからである。

理想と現実は必ず矛盾するものであるから、為政者が理想主義者であれば、彼の行う政治は破綻をきたす。それ故、為政者はいかなる主義・理想を持ってはならないのである。

先に述べたように、アショーカ王の祖父であったチャンドラブクタ王には、カウティリアという名参謀がいて、王を補佐していた。そのカウティリアは次のよう発言している。

「・・・苛酷なる王杖(権力、刑罰、暴力)を用いる王は軽蔑される。適切に王杖を用いる王こそが尊敬される。

軟弱なる王杖を用いる王は軽蔑される。適切に王杖を用いる王が尊敬される。実際、良く熟知して用いられた王杖が、臣民に法(ダルマ)と
実利(アルタ)と享楽(カーマ)とをもたらす。

欲望や怒りや軽蔑により不正に用いられた王杖は、
林住期と遊行期にある人々も憤慨させる。ましてや家住期にある人々の場合はなおさらである。しかし、王杖を全く用いなければ、弱肉強食の魚の法則を生じさせてしまう。

すなわち、王杖を執る者が存在しない時には、弱者が強者を食らうのである。王杖に保護されれば、弱者も力を得る。

なるほど、民主主義は逆!

カウティリヤは、適切なる王杖ーー王権、刑罰、それはイコール暴力の使用を言っているのであり、暴力の廃絶を呼びかけているのではない。暴力(王杖)がまったくなければ、社会は弱肉強食状態となり、かえって混乱する。アショーカ王も大王であるから、そのことは良くわきまえていたはずだろう。

したがって、カリンガ国征服戦争に行われたアショーカ王による「戦争廃絶宣言」も、必ずしも国家の交戦権の放棄ではない。いかなる王も、暴力(王杖)を手放せば、その瞬間に彼は王ではなくなるのだから。

アショーカ王が「戦争放棄の宣言」をしたことは、戦争によらずにマウリヤ帝国の維持・発展が可能になったからである。すなわち、「マウリヤ王朝の平和な時代」の体制が出来上がったたためである。

カリンガ国は、マウリヤ帝国に対抗する大勢力であった。将来、カリンガ国によってマウリヤ帝国の基盤が崩される危険がある。そう見抜いたからこそ、アショーカ王は苦戦を承知でカリンガ国と交戦した。予期した通り、カリンガ国の征服は困難な戦争であった。多くの人命が失われた。

そして、戦争はマウリヤ帝国の勝利におわった。そうなると、もはや軍事力は役に立たない。国内の治安を維持できる程度の最低限の軍事力でよい。マウリヤ帝国の中央に軍事力を温存し、その他の軍事力は廃絶する。その方が、国家の基盤は安泰である。そのような計算にもとづいて、アショーカ王は「平和」の政策への転換を図った。その点は、徳川幕府の政策によく似ている。

徳川幕府自身が編纂した歴史書である【徳川実紀】は、こう述べている

武力によって天下を統一した徳川家康は、「馬上をもって天下を得た」ものを「馬上をもって治めるべからず」と悟り、文治主義に路線を変更した。『徳川実紀』はそれを家康の英断と称楊しているわけだが、それは、天下統一の暁には武断主義はかえって危険であるからだ。

武断主義の大前提は「天下は回り持ち」という思想である。この思想がある限り、新しい覇者によって天下は奪われる。それを避けるためには、「天下は回り持ち」の思想に同意してはならず、そのため、武断主義を止めなければならない。

それが、アショーカ王の「平和思想」である。一般に思われているような「平和思想」ではなかった。戦争を必要としていない、「絶対的征服体制維持」のための「平和的王杖(=民の思想管理)」の使用である。


建設的平和思想?

為政者は、必要とあれば暴力を振るわなければいけない。そして、その必要は日常茶飯事的にある。

問題は、アショーカ王と仏教の結びついた理由である。仏教は、前にも述べたが「心の平和」を説く。それは、個人レベルにおいての一種の気休め程度の「平和思想」にすぎない。

政治と関わりのない、あるいは政治と絶縁しているからこそ主張できる、平和な「平和思想」である。そうした「平和思想」が、アショーカ王によって採用された。


アショーカ王の平和思想は、「平和なマウリヤ王朝」に裏付けられてこそ可能な政策で、「絶対的支配体制が完備」していたから、アショーカ王は平和を語る政策を採用できた。これは、『支配される側にとっては抵抗不可能』であることを意味する。

つまり、アショーカ王のマウリヤ王朝の政治は、下からの抵抗を封じることによって、上からの勝手な平和を押し付けた。それが『マウリヤ王朝の平和な時代』の真の意味である。
平和が強調されればされるほど、下からの抵抗権が抑圧される。

本来、政治と関係ないと思われる仏教が、見事に政治的な役割を担っている。しかもその役割は、為政者の側に加担し、民衆の側からの抵抗権を抑圧するものだった。

上から与えられる「平和思想」は、むしろ真の平和を抑圧してしまうのだ。これは見せかけの「平和思想」であり、まやかしの「平和思想」である。
つまり、為政者アショーカ王は自分に都合の良い社会体制を作った。

しかし、そのような体制は、必ずいつか下から突き崩そうとされる。その下から伸びてくる力を抑え込むために、絶対的支配体制をつくりあげるためにも、仏教は「嘘の平和」のシンボルとして使われたのだ。言うなれば、仏教は権力のお先棒を担いでいたのである。

仏教の平和は「嘘の平和」

仏教は、その始まりから権力の走狗であり、民衆の弾圧に加担してきた。現代日本において民衆に与えた仏教意識も、そのような性質のものである。

アショーカ王の謎解きはつづく・・・

追記:

戦争を必要としていない「絶対的征服体制維持」のための「平和的王杖(=民の思想管理)」の使用である。

この文の整理をnoteのAIにお願いしたら面白い答えを出した。⬇︎

結局、本編では自身で句読点一個つけただけなんだけど。

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