神道の始まりから現代までの歴史がついに分かるnote!!ヽ(`Д´)ノプンプ
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はじめに
2025年11月2日:変わっていないように見えるが、ワシの理解度が上がっているので、読みやすく文を修正しました。
2025年11月2日:ラストに「まとめ」として『神社本町の正体』を足した。書いてあるとはいえ、壮大すぎて把握できないと思う。
神社本町の正体は
701年大化の改新・大宝令の律令制で設けられた朝廷の『神祇官』である。
また、皇紀2600年記念にのために『神祇官』を復活させた省庁、『神祇院』とも言える。『神祇院』はGHQの「神道指令」で潰されたが、あくまで民間団体の建前で復活させたのが神社本町。
国民を戦争に向かわせる宗教は、統一教会でなく、伊勢神宮を本宗とする神社本庁!
1.701年、大宝律令が制定され、その中で神祇官と太政官が定められた
神祇官は、大化の改新・大宝令以後に日本の律令制で設けられた官庁であり、律令制において、国家最高行政機関である太政官よりも上位に位置し、その長官は神祇伯という。
朝廷では、祭祀を行う神祇官が最上位の官庁であった。

2.壮大な詐欺:『古事記』(712年)、『日本書紀』(720年)
天皇・朝廷は、この島国の歴史をすべて消し去り、この国の歴史を自分たちに都合の良いように改竄し、創作された物語を史実として扱った。この宗教を利用した歴史修正という詐欺的な統治手法は、唐の武則天に倣ったものである。武則天は、自身を救世主とする創作的な仏教経典を用いて、唐において人心を掌握し、統治を成功させていた。

3.鎌倉幕府の成立により朝廷の勢力は衰退したと思うが、調べはこれから
この後に復活している理由がまだわかりません。
4.応仁の乱(1467年~1477年)後、官司(官庁および官人組織)自体が衰退した

『応仁の乱』とは京都を焼け野原にした出来事、この出来事をきっかけに、日本は戦国時代へと突入した。◉官人=役人のこと。
5.江戸時代

大宝律令の律令制は、形の上では生き続けていたため、幕府は朝廷に対し、小大名程度の領地と公家領を増進し、幕府の援助によって祭祀や行事を再興させ、天皇の権威を強化した。
しかし、幕府は天皇が政治上の実権を持つことを許さず、朝廷を厳しく統制下に置いた。天皇は、名目的な作暦、改元、叙位任官の権限を保持するに過ぎなかった・・・・なぜ、皆殺しにしておかかったんだ!ヽ(`Д´)ノプンプン
6.江戸時代:復古神道(古神道)プロパガンダ
江戸時代後期、古事記を元にした王政復古プロパガンダのための似非学問、国学のために尊皇思想が広がっていった。「天照大神が〜」「神武天皇が〜」「日本を作った神の子孫である現人神である天皇こそが王であり神である」といったあの頭の痛い話は、自作自演の復古神道(古神道)から来る。

国学神道とは言わず復古神道と述べる理由は、儒教や仏教などの渡来以前の、古代日本の純粋な精神に立ち返るんだあ〜とダマすことが狙いであるためである。その内容からは国学神道と言った方が正しい。。
中国の王朝において宗教とは、人々を自発的な服従へと向かわせるため、王朝が作り支援するものである。数多く存在する中国の宗教も、神道と同様に国家が作り上げた詐欺!日本人は江戸時代から文盲が極端に少なく、なまじ文字が読めるのを利用して、ユダヤ王政復古クーデター明治維新に繋がった。
武力による力の支配は短期的には有効だが、民衆はやがて反発するため、長期的な支配は不可能である。宗教を利用して民衆をなだめ、ボケ頭にし思考力を鈍らせることは、支配を維持するためには絶対に不可欠なのだ。(このようなことが帝王学である)
7.無知な若者たちが、朝廷に仕える頭の良い詐欺師に騙され、明治維新を起こしてしまった!

8.大政奉還:慶応3年10月14日(1867年11月9日)

大政奉還:第15代将軍・徳川慶喜が京都の二条城において、明治天皇へ政権を返上し、天皇がこれを受理した。これは、侍たちが暴れる以前は、天皇・朝廷が政権を掌握していたという事実と、将軍が朝廷から統治を委任された征夷大将軍であったという経緯から、「奉還」という名が用いられる。
9.王政復古の大号令:
慶応3年12月9日(1868年1月3日)

京都御所の御学問所で、明治天皇から「王政復古の大号令」が出た。これは、江戸幕府の廃止と天皇親政・公議政治を掲げ、一部の公家と薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩、尾張藩といった有力諸藩が主導する新政府を樹立するというものであった。
親政とは、君主である天皇自身が政治を行う政治形態のことである。
公議政体論
幕末から明治初期にかけての「議会制度を導入して合意を形成し日本国家の意思決定、および統一を図ろうとする政治思想で、倒幕派にとっては明治維新後の政治の理想像の1つとして唱えられたもの・・・・。
これは今の議会制民主主義のことだね・・・・倒幕派にも悪党ではなく、ウブで騙された者もいるんじゃないの?西郷隆盛とか。(^_^;)
もともと、王政復古の大号令は「王政復古、国威挽回」や、根本的な大改造であることから「百事御一新」と宣伝していた。この「御一新」が「維新」という語となり、後に「王政維新」と述べられるようになった。革命初期の公文書には、「政体復古・天下一新・朝政一新」という表記がなされていた。
◉「明治維新」という言葉は、1890年の大日本帝国憲法公布の数年前に作られた。(^_^;)
開国だの文明開化だの、良いことが起きたとするプロパガンダのために、明治維新ってカッコ良さげな名にしたんだろうね。(^_^;)
徳川幕府による武家政治の終了にともない、天皇を頂点とする政治に戻すという宣言がなされた。しかし、徳川氏は大政奉還後も権力を保持し、政治に関与できると考えていた。これに対し、倒幕派の公家・岩倉具視や長州藩・薩摩藩などは反発し、幕府の廃止と、『天皇のもとで有力な藩が共同で政治を行う体制を宣言した。』
岩倉具視は公家である
公家:朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家を指す。


王政復古の大号令により、新政権は江戸幕府を廃止し、新たに総裁・議定・参与の三職を置くことを宣言した。これに対し幕府側は当然反発し、戊辰戦争へと発展することになる。
10.1868年10月23日(明治元年9月8日)明治改元
明治元年(慶応4年)(1868)9月8日、明治天皇から明治改元の詔が発せられ、慶応4年を明治元年とすることになった。
11.戊辰戦争:慶応4年 / 明治元年〈1868年 〉 - 明治2年〈1869年〉
旧幕府軍と新政府軍の対立は戦争に発展し、16ヶ月に及ぶ戦闘の結果、新政府軍が勝利した。
新政府からの処遇に不満を抱いた徳川慶喜は、旧幕府側の会津藩や桑名藩に出兵を命じた。神戸沖で旧幕府軍艦が薩摩藩軍艦に発砲したことが直接の原因で戦闘が開始され、京の郊外で大きな戦になった。(鳥羽・伏見の戦い)
鳥羽・伏見の戦いは新政府軍の勝利に終わり、慶喜は江戸の寛永寺に謹慎となった。江戸城は無血開城された。しかし会津藩をはじめとする東北の藩は引き続き抵抗した。会津藩が降参したあとも、榎本武揚ら旧幕府海軍を主体とする勢力は蝦夷地で抵抗を続けたが、最後は新政府軍に敗れた。(箱館戦争・五稜郭の戦い)

現代に続く戊辰戦争のオチ
12.1868年(明治1年)旧暦:閏4月21日:朝廷において神祇官と太政官が復活した!
1868年(明治1年)閏4月21日、新政府は政体書を発表し、神祇官と太政官を復活させた。この太政官と神祇官の復活は朝廷の復活ということ。明治政府の中身は復活した朝廷である!
(〈此度王政復古,神武創業ノ始ニ被為基,諸事御一新,祭政一致之御制度ニ御 復被遊候ニ付テハ,先第一神祇官御再興御造立ノ上,云々〉――1868年3月13日太政官布達)。
翻訳:
「『この度の王政復古は、神武天皇の創業の始めを基礎として、さまざまな事柄を御一新、祭政一致のご制度になさるようくだされた。それにあたっては、まず第一に神祇官を再興し、ご創立の上、(以下略)』――1868年3月13日、太政官から広く一般に知らせる。」
ポイント:
◉明治政府は『祭政一致』の理念のもとに『神祇官!』を再興した。
◉内閣制度発足前の明治日本政府は朝廷の『太政官!』であった。
13.廃仏毀釈1868年旧3月
明治初年、維新政府の政策に基づいて仏教排斥、寺院・仏像・仏具破壊運動が起こった。1868年旧3月、太政官布告による神仏判然令によって神仏分離が急激に実施されると、平田派国学者の神官らが中心となり、寺院の仏堂、仏像、仏具などの破壊・撤去運動が展開された。




14.1869年(明治2年):版籍奉還
藩主が土地と人民に対する支配権を朝廷に返還したものの、地方では大政奉還後も依然として藩が土地と人民を掌握していた。新政府である明治政府は、封建制度から中央集権体制への移行を目指し、諸藩の土地と人民を天皇に返還させようと考えた。
まずは薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩が率先して、土地と人民を天皇に返還した。するとその他の藩もそれにならった。明治政府は藩主を知藩事に任命した。薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩が率先して土地と人民を天皇に返還した。するとその他の藩も倣い、明治政府は藩主を知藩事に任命した。
ここら辺は非常に臭い。吉備団子の手口をまた使ったか?( ̄▽ ̄;)
さらに、これに続いて廃藩置県が実施された。
15.1869年8月29日(明治2年7月22日):内閣制度発足前の太政官において、事実上の首相として政治を主導した大久保利通
太政官、大久保利通:明治2年7月22日(1869年8月29日)に参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行なった。
16.明治3年1月3日(1870年2月3日)大教宣布詔
大教宣布の詔とは、明治3年1月3日(1870年2月3日)に明治天皇の名により出された、「治教を明らかにして惟神の道(かんながらのみち/神道)を宣揚すべし」という詔書である。「惟神之大道」➡︎『唯一神の大道!』(;´Д`A
惟神の大道を宣揚し給ふの詔
朕恭(うやうや)しく惟みるに、天神·天祖極に立ち統を垂れ列皇相承け之を繼ぎ之を述べたまへり。祭政一致、億兆同心、治敎上に明芒して、風俗下に美はし。而るに中世以降、時に汙隆(※註一)有り、道に顯晦(※註二)有り、今や天運循環し、百度惟れ新なり。宜しく治敎を明かにし、以て惟神の大道を宣揚すべきなり。因りて新に宣教使を命じ、天下に布敎せしむ。汝群臣衆庶其れ斯の旨を體せよ。明治三年正月三日(太政官日誌 原文は漢文なり)
【翻訳】惟神(神道)の道を広く世に知らしめるようにとの詔:
我天皇は謹んで推測し考えるに、天の神・天皇の祖先神は極めに立ち、支配を垂れ、代々の天皇がその姿を受け継ぎ、これを述べ与えたり。祭政一致、億兆同心、治める教えの上に明らかに尖らせて、しきたりや習わしを下ろし美しく。
しかしながら、中世以降、時に穢らわしき者の栄えあり、道に現れたり隠れたりすることがあった。今や天運は再び巡り、あらゆるものが新しいなり。
必ず政治と教化を明かにし、よって惟一神の大道を広く告げしらせるべきなり。そこで新たに宣教使を任命し、天下に布教せよ。汝、多くの臣下や大勢の庶民はそれ、この旨を身に付け自分の本性とせよ。明治三年正月三日(太政官日誌 原文は漢文です)
◉穢らわしきものが栄える有り=侍/武士。
◉現れたり隠れたり=天皇/朝廷はピンチになり世から隠れたり出たりした。
◉大日本帝国憲法と通じる。軍人手帳(今翻訳中)に詳しく書いてある。
天皇の言葉に現れる治敎の「敎」の字の意味
教=① 神や上位の者が諭し、導くこと。教訓。戒め。※古事記(712)上「そのウサギ、沢山の神の教に従いてひれ伏す。」漢字「教」は体罰で教えから成り立った壮絶な漢字。(子供の頭をシメる)

17.廃藩置県1871年(明治4年)7月14日
大政奉還後も、地方では藩の大名がそのまま知藩事として権力を握っていた。中身は朝廷の明治政府はこれまでの制度から中央集権体制への移行をもくろみ、これまでの全ての藩を廃止して、代わりに府と県を置くことにした。知藩事は失職し、東京への移住が命じられた。代わりに府県には府知事・県令が派遣された。
18.1871年(明治4年)8月8日、太政官の下に神祇省を設置、宣教使らをおいた
明治政府は祭政一致の理念のもと、神祇官を再興した。しかし、明治天皇の「大教宣布詔」により、1871年(明治4)8月8日、神祇官を廃し太政官の一省に格下げして神祇省が設置された。同時に、キリスト教の宣教師に相当する「宣教使」が新たに置かれ、神道国教化政策が展開されることとなった。
宣教師の例

しかし、宣揚(広く世の中に広めること)は、廃仏毀釈による混乱、地方政府としての機能が残っていた藩の儒教・仏教重視との対立、「神祇省」内部の国学者たちの路線の対立、欧米からのキリスト教弾圧停止要求などの問題が重なり、神道国教化の動きは不振が続いた。
神祇省の内部に、明治維新をおこさせるプロパガンダのための学問、復古神道の国学者達がいたわけだ。有名な国学者たちの弟子の世代だけど。
宣教使初代長官:討幕の密勅で名が出てくるの中山忠能(真ん中)

中山忠能は、明治天皇の母方の祖父であり、慶応3年(1867年)に中御門経之、正親町三条実愛らと協力して討幕の密勅の発布に尽力、王政復古の大号令実現にも貢献し、小御所会議では司会を務めた。晩年には嘉仁親王(後の大正天皇)の養育を担当、明治21年(1888年)に80歳で没し、死の直前に大勲位菊花大綬章を受章した。
討幕の密勅で幕府軍は「朝敵」とされ、幕府軍はメロメロになった。

小御所会議は、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に京都御所で行われた、王政復古の大号令後の最初の国政会議。大政奉還後の徳川慶喜の官位辞退と徳川宗家領の削封が決定され、倒幕派の意向通りに進んだことから、王政復古の大号令と合わせて「王政復古クーデター」と呼ばれる。
討幕の密勅は、実際には明治天皇によるものではなく、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之らの署名があった。これは岩倉具視が主導した偽勅であり、起草は岩倉の側近である玉松操が行った・・・これは説でなく確定だよね?(汗)

この写真は、薩摩、島津久光・茂久父子に下された密勅。島津久光は明治維新のために偽金造りしていたヤツだ・・昭和天皇の嫁の香淳皇后の曾祖父、第125代天皇明仁の(母方の)高祖父の島津斉彬の弟・・・

神祇官の宣教使次官:福羽美静

初め藩校養老館で岡熊臣(国学者)に学び、京都に上って大国隆正(国学者に)、さらに江戸で平田銕胤について皇国学を修業した。
文久2(1862)年、藩命により上京、諸藩の尊王の有志と交わって情報収集に奔走した。明治1(1868)年、神祇事務局権判事となり、まだ若い明治天皇に『古事記』を進講した。以後、制度寮、神祇官、教部省、文部省などに勤める。元老院議官、貴族院議員などを歴任。
◉宣教使次官:福羽美静は靖国神社の元、招魂社創設の話に続く・・・。
19.1872年(明治5年)に太政官布告第342号が公布され、「神武天皇即位紀元」が制定された
「神武天皇即位紀元」は、皇紀、皇暦、神武暦、神武紀元などとも呼ばれる。そして、その次の年、
20.1873年(明治6年)、日本は2月11日を「紀元節」と定め、建国記念日として休日とした。

結局、神武天皇がこの島を侵略し大和国を建国、つぎに、唐の武則天
(天照)が日本国と改名したのが我々の国なのか。( ̄▽ ̄;)
21.1873年(明治6年)1月10日、徴兵令発布
「富国強兵」のスローガンのもと、近代的な軍隊が作られた。この実現のために、これまでの武士のみによる戦闘ではなく、四民平等による国民皆兵の制度の整備が急務とされた。徴兵令では、抽選で選ばれた満20歳の男子が3年の兵役に従事すると定めた。しかし、家の主人や家の後継ぎは徴兵を免除されるなど、免除条件が多かったため、徴兵を逃れようと養子縁組をする者が続出した。また、徴兵令に反対する農民たちによる一揆(血税一揆)も発生した。
22.1873年(明治6)地租改正
政府は国庫収入を安定させるために、土地の所有者に地券を交付して土地の私的所有権を確立させ、金銭で納税させるようにした。
これまで租税は、土地の石高に応じて年貢を耕作者に課していた。それゆえに年によって収穫量が異なるため、政府の収入は安定しなかった。税率を地価の3%とし、土地の所有者が金銭での納税の義務を負うとする地租改正法を制定した。これにより政府の収入は安定したが、地租改正に反対する一揆が発生した。
23.結局、いきなり作った国家新興宗教、『神道』の布教は上手くいかなかった・・・
宣教使官員の少なさや教義の未確立、あるいは府藩県宣教掛の能力不足、消極性もあって、宣教使の大教宣布運動は終始不振で、かろうじてキリスト教徒が多い長崎県に宣教使を派遣して宣布を行った程度に留まった。
外圧で嫌々キリスト教を認めただけなんだろうね。( ;´Д`)
24.明治5年3月14日(1872年4月21日)「教部省」設置
神祇官による宣教はうまくいかず、わずか半年で頓挫した。そのため、大教宣布を行うべく、新たに「教部省」が設置された。これは、神祇官が行っていた宮中祭祀を切り離し、神祇官の匂いを消すことを意図したものであった。同時に、大教宣布路線の再建・強化を目指す「大教院」も設置されることとなった。

25.「大教院」とは「神道プロパガンダ工作員養成道場」
神道による国民思想の統一を目ざす明治政府の大教宣布運動の中央機関であり、教導職の研修の道場。東京芝の増上寺内に設立され、地方には中教院・小教院が置かれた。神道の神主と仏教の僧侶が合同で神道国教の布教を行う計画であった。

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