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後編:フランク ブックマンの道徳再武装VSナチスの戦い➡︎統一教会

14532文字

はじめに

統一教会を調べ出したら、戦時中のナチスドイツとヨーロッパ調べになってしまった。リアルタイムで知る上の世代は、当時の状況から統一教会の元は「道徳再武装」と思っていた人たちはいるみたい。でも、ナチス・ヒトラー潰しのために道徳再武装が生まれたとは知らない。道徳再武装まで気づいて「ナチスのスポンサーはスコットブッシュ!」って底辺のガセネタ陰謀論を掴まされ信じ込んで・・・嗚呼!(;´Д`)

これは皆が求めているであろう統一教会の創世記のまとめ。正しいが、ここだけでは終わらない。

正確には、統一教会(勝共連合)の
反共産主義の教えのもと

統一教会の教えも専用noteで説明しなければいけないのだけど・・それは後に。


ワシが気がついた時の話

これの後編です

なお、調べていた時に見つけたソースが余りにも沢山あり、それは専用noteでまとめます。まだ戦後の我々にした詐欺洗脳があり書ききれてないのだ。

ーー本編ーー


ヨーロッパでのキャンペーン

1930年代、オックスフォード グループはドイツでかなりの支持者を抱えていた。ヨーロッパやアメリカの他の国々と同様に、彼らもナチスの台頭を警戒して見守っていた。ブッフマンはドイツの同僚と密接な連絡を取り続け、ドイツのナチス指導者に働きかけて新しいアプローチを説得しなければならないと感じていた。

1930年代の初頭、ブックマンは、オックスフォード・グループに積極的に参加していたドイツ人の神学者、カール・バルトと緊密な関係にあった

カール・バルトとシオニスト・マーチン ルーサーキング Jrと、お約束のTIMEの表紙

1934年、プロテスタント教会がナチス・ドイツと折り合いをつけようとしたとき、バルトは『バルメン宣言』の執筆に大きく関わった。この宣言は、『イエス・キリストの神への忠誠が、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーのような他の支配者の影響に抵抗する原動力とリソースを教会にもたらすと主張した。』

バルトはこの宣言を個人的にヒトラーに郵送した。これは告白教会の設立文書のひとつであり、バルトはその指導者会議であるブラザーフッド評議会のメンバーに選出された。(兄弟会評議会、フリーメーソン臭いな)

『バルメン神学宣言』とは?

カール・バルト    トーマス・ブライト    ハンス・アスムッセン

バルメン神学宣言(略称BTE)は、ナチス時代の告白教会(BK)の神学的な基礎であった。その主著者は改革派神学者カール・バルトであり、共著者はルター派神学者トーマス・ブライトハンス・アスムッセンである。バルメン信仰告白会議は、繰り返し改訂されたこの文書を、DEK に加盟するすべてのルーテル派、改革派、統一教会の拘束力のある信仰告白として 1934 年 5 月 31 日に採択しました。重要な一文は次の文です。

⭕️『唯一の神の言葉はイエス・キリストだけであり、したがってキリスト教徒は彼だけを信頼し、従わなければならず、他の力に頼ってはなりません!』

ブックマンは、ナチス政権の核心を変えなければ世界大戦は避けられないと確信していた。また、ドイツの指導者を含め、誰もがキリストの道徳的価値観に献身することで、生きたキリスト教の信仰を見つけることができると述べた。

1932年と1933年は、改宗を期待してアドルフ・ヒトラーとの面会を試みたが、叶わなかった。彼はオックスフォード・グループの支持者であるモニ・フォン・クラモンの要請でヒムラーと3回会った。最後の会談は1936年だった。最後の会談の数時間後、彼はデンマーク人のジャーナリストの友人に、扉は閉ざされたと語った。「ドイツは恐ろしい悪魔の力(demonic power)に支配された。対抗措置が絶対に必要だ」

デンマーク人のジャーナリストの友人は『ジェイコブ・クロニカ(Jacob Kronika)』

1962年1 月2日、デンマークの新聞、フレンスボリ・エイビスクロニカによる記事では『そして、ブックマンは、最終的に1936年にはヒムラーを”大した男”であると評した。』

ジェイコブ・クロニカ:特派員であり、数冊の本を執筆し、1927年には国境問題を扱った演劇『Enten-Eller』でデビューした。 1937年に彼は、ヒトラーが権力を握るまでのベルリンの状況を描いた小説『革命』を出版した。この本の中で、彼はナチズムの国家統一の呼びかけに肯定的に反応している。ヤコブ・クロニカは後に、数年後までナチズムの本質を理解していなかったことを認めた。 「それは私の間違いだった」と彼は1935年に書いた。[ 1 ]

[ 1 ]

ゲシュタポの文書から、ナチスは1934年以降オックスフォード・グループを疑いの目で見ていたことは明らかだ。
オックスフォード・グループのドイツにおける活動はスパイ活動の対象となり、主要メンバーは尋問を受けるようになり、ヒトラー政権下での効果的な活動はますます困難になった。これを受けてブックマンは、スカンジナビアでキリスト教革命を示せばドイツに大きな影響を与えられると考え、活動の焦点をスカンジナビアに移した。

ドイツ          スカンジナビア半島

ノルウェー議会議長カール・J・ハンブロの招待を受け、彼は1934年に30名のグループを率いてノルウェーへ向かった。オスロの日刊紙「ティデンス・テグンはクリスマス版で「我々の言葉も知らず、やり方や習慣も理解しない少数の外国人がこの国にやって来た。数日後、国中で神について語り合い、30人の外国人が到着してから2か月後には、国全体の精神状態は明らかに変化した」と評した。

カール・ハンブロ            ベルグラウ司教

カール・ヨアヒム・ハンブロ(1885年1月5日 - 1964年12月15日)は、ノルウェー国会議員を10期務め、 38年間の議員生活のうち20年間は議長を務めた。国際問題にも積極的に関わり、国際連盟、国連総会代表、ノルウェー・ノーベル委員会委員を務めた。カール・ヨアヒム・ハンブロの家系は、1720年代のレンズブルクにまで遡ることができる。一族はユダヤ人だった。

1935年にトロムソのベルグラウ司教は「今ノルウェーで起きていることは宗教改革以来最大の精神的運動である」と述べた。

エイヴィンド・ヨーゼフ・ベルグラヴ(1884年10月25日 - 1959年1月14日)は、ノルウェーのルーテル派の司教であった。ノルウェー教会の首座主教として、ベルグラヴは第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるノルウェー占領に対する不屈の抵抗で知られるようになった。ベルグラヴは20世紀のキュメニカル運動においても重要な人物となり、聖書協会連合の会長を務めた。

教会内の保守派と自由派の間の大きな分裂が修復され、戦時中、ナチス支配に対する教会のより効果的な反対への道が開かれた。1年後の1935年、デンマークでの運動も同様の影響を及ぼした。

オックスフォード・グループについて「キリスト教の交わりという神の賜物に私の目を開かせてくれました。そして、今私が所属するこのグループでそれを経験しました」と述べた。 ナチスがデンマークに侵攻した際、コペンハーゲン司教フグルサン=ダムガード司教は強制収容所に送られました。投獄される前に、彼はブッフマンに密かにメッセージを届け、オックスフォード・グループを通してナチスが打ち砕くことのできない精神を見つけ、恐れることなく進んでいくと伝えました。

世界教会協議会       フグルサン=ダムガード司教

1954年、イリノイ州エバンストンで開催された世界教会協議会で、コペンハーゲンのフグルサン=ダムガード司教は次のように報告した。「1935年のフ​​ランク・ブッフマンのデンマーク訪問は、デンマーク教会の歴史における歴史的な経験でした。それは教会と国家の歴史に金字塔として刻まれるでしょう。」と述べた。

ダムガード司教は、ナチスの反ユダヤ主義はキリスト教と相容れないと非難する司牧書簡で特に知られており、この書簡はデンマークのすべての司教によって署名され、1943年10月3日の礼拝中に読み上げられた。


ブックマンは1935年のニュルンベルク集会に出席した。(動画は1936年)

戦後公開されたゲシュタポの文書によると

ナチスはブックマンが英国諜報機関のために働いていると考えており、1936年11月、ゲシュタポ中央保安部は、オックスフォード・グループが「国家社会主義の危険な敵に変貌した」「国家社会主義の新たな危険な敵」であると警告する文書を送付した。これに続き、1939年には126ページに及ぶ報告書が発表され、オックスフォード・グループは「英米外交のペースメーカー」であり、「グループ全体として国家のナショナリズムへの攻撃を構成している。…彼らは国家に対する革命を説き、明らかにキリスト教の敵対者となっている」1942年の文書では「キリスト教が超国家的であり、あらゆる人種の障壁から独立しているという性格をこれほど強く強調したキリスト教運動は他にない」と書かれている。

ナチスはスターリン主義のボルシェヴィズムカトリック・アクションなどの非ナチス右翼団体ナチズムにとって危険であると分類した。


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